English Version is Here
translated by "excite"
<メリー・ホプキン>

メリー・ホプキンは、デビューして、わずか1ヵ月でスターになった。彗星のごとく現われ、アッという間にスターになった彼女はまさにシンデレラのようであった。世界のポップス界は人材がなく、伸び悩んでいたところにメリー・ホプキンが現われたのである。コニー・フランシス以来の大物と、ポップス界は注目した。彼女は今から19年前、地方議会議員ハウエル・ホプキンの三女として南ウェールズ地方グラモーガンシャーの谷間にある人口1万の町ボンタードウで生まれた。4才のころから教会のコーラス隊で歌い、平和に成長しが父知の友人であるルアン・ルイスという人の彫響をうけ、完全にフォーク・ミュージックの魅力にとりつかれてしまった。ジョーン・バエズやジュディ・コリンズのレコードを聴き、独学でギターをマスター、15才の時には完全に一人前のミュージシャンになっていた。歌好きのメリーは、ボンタードウの労倒者がたむろする酒場を中心に南ウェールズのカーディフやブリゲンドの労倒者用バーを歌い歩いた。その地方では、彼女はちょっとしたスターになっていた。そんなある日、彼女はヒューイー・グリーンのテレビ番組「オポテュニティ・ノックス」に出演するチャンスを掴んだ。200人もの若いミュージシャンの中から選ばれた彼女は、運よく英国一のファッション・モデル、ツイッギーの目にとまったのである。ツイッギーはこの可愛いい新人のことを友人のポール・マッカートニーに,話した。メリーはアップル・レコードのピーター・ブラウン氏から電話をうけた。プロ・シンガーにならないか、というのである。

このブラウン氏とは実はマッカートニーだったのである。プロ・シンガーになることにはホプキン家全員が反対したがマッカートニーの熱意にまけ、両親からゆるしをえるまでの間に、メリー自身は5ポンドもやせた。こうして、1968牛8月メリー・ホプキンは「悲しき天使」でデビューした。ほのかな郷愁を秘めたこの助は、アッという間に世界を征服300万枚を売りあげ、そのお祝いと彼女の初のLPの発表会を米ねたセレモニーが、1969年2月中句、ロンドンの520フィート上空のGPOタワーで行われた。当日、ポール・マッカートニーやドノバンが出席、アーサー・デンジャーフィールドの手で「悲しき天使」のゴールド・ディスク授与が行われた。

彼女の2弾日のシングル「瞳はるかに」(1969年サン・レモ音楽祭2位)は、日本では発売中止となったが、かくれたヒット曲となっている。ポップス界のシンデレラ、メリー・ホプキンの可憐な歌声は、ファンを魅了せずにはおかないであろう。