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恵まれた資質を生かす期待の新星
<メリー・ホプキンの現在と将来>

日本経済新聞記者 河塚順一郎

1968年秋から翌69年にかけて世界的な大ヒットを飛ばした“悲しき天使”という曲をご存じの方は多いだろう。日本でも日本語盤と英語盤で歌われ、イタリアのチンクエッティ、ギリシャのビッキーなど、続々と名乗り出、その競演、実に十数種にのぼるという事態を生んだ。ムード音楽でも、マントバーニ、ポール・モーリア、ウェルナー・ミューラーといった面々がきそってプログラムに取り上げていき、いまやポップス界のスタンダード・ナンバーとして“その永遠性”が輝きを増してきている。

世界的なセンセーションを巻き起こした“悲しき天使”もその誕生の発端は英国ウェールズ生まれの18才の若き女性シンガー、メリー・ホプキンが創唱したことに始まる。新人の歌った新曲にわざわざ創唱という重々しいことばを使わなくてもいいのだが、“ケ・セラ・セラ”ならドリス・デイ、“モナ・リザ”ならナット・キング・コールといったように本家というか、生みの親的な歌手が必ず存在する。そうした意味でメリー・ホプキンも18才ながら“生みの親”となったのである。(一説には彼女の年齢はかなり年上との説もあるが、これこそ来日しての一見にしかずだろう)

このホプキン、もとはといえば南ウェールズ地方クさラモーガンシャーの谷間にある人口1万の町ボンタードウの地方議会議員ハウエル・ホプキンの三女に生まれた。だから日本でいう町会議員クラスを想像してもらうとその家庭の暮らし向きがわかるだろう。4才から教会の聖歌隊にはいって歌を覚え、さらに父親の友人であるルアン・ルイスという人の影響を受けてフォークソングのとりことなった。ギターを独学でマスターし、ジョーン・バエズやジュディ・コリンズに熱中したのが少女時代のホプキンである。フォークソングに熱中し“歌好き”ではあったが、あとはごく平凡な娘として育ち、15才ごろからは歌手への“病い”がこうじて、労働者のたむろする酒場などで歌っていたという。

こうした平凡な娘メリーに突然降ってわいたようなことが起こった。その第一の手がかりはテレビ番組「オボチュニティ・ノックス」に出演する機会に恵まれた。このとき 200人もの若い音楽家たちが押しかけたが、その中から選び出されたのだから、かなり目立つ存在だったのだろう。第二の手がかりはこの番組が日本にも釆たことのある英国きってのファッション・モデル、ツィッギーの目に止まった。彼女はその才能を見抜き、ザ・ビートルズのメンバー、ポール・マッカートニーに報告した。マッカートニーはビートルズのメンバーで設立したアップル・レコードの重役だったからすぐさま勧誘に乗り出した。ポールがうしろ立てになり、ホプキン家全員が反対するのを押し切ってメリーは歌手への道を選んだのが第三の幸運であった。

次々にラッキーなチャンスを生かしたメリーはさらにデビュー曲でこれらの人たちの期待にこたえた。“悲しき天使”が68年8月の英国発売以来、半年もたたないうちに 300万枚を売り尽くしたのだから文句なし。新人選手が初打席でホームランをかっ飛ばしたようなもので大騒ぎとなった。そのデビューぶりのあざやかさに「現代のシンデレラ娘」として大いに話題をさらったものである。

さて、デビュー曲が大ヒットするとそのあとの曲に困ることは洋の東西を問わない。日本でも流行歌の世界によくみられる現象である。それだけに続く第二作“グッド・パイ”でデビューがフロックでなかったことを証明できたのはよかった。ただ、デビュー曲があまりにも強烈であり、爆発的であったのに比べると多少売行きがよいという程度では世評を倍加させる力とはならなかった。しかも昨年後半はどちらかというと、こと日本に関しては鳴かず飛ばずで、一部にはホプキンいまいずこという口悪い連中も出たほど。だが、メリー・ホプキンにとってはまだ歌手として長い道程を歩み出したところである。しかもやっと20才台に手が届くころという”年齢の武器”が将釆への大成を約束してくれそうだ。平凡な”歌好き娘”からプロシンガーとしての成功と苦労を知り始めた彼女は永続性のある歌手への第一歩として”夢見る港”を発表してポール・マッカートニーの“過保護”状態から脱して自分自身を最も生かし得る、ぶさわしい曲として歌い上げた。

ミッキー・モストをプロデューサーに迎え、フィルモア、リンコルンによって書かれたこの曲は英国では「近来まれに見る大傑作」と評され、彼女のあふれるばかりの意欲に各紙は絶賛した。

だが、それ以上に彼女が真価を発揮した曲がことし3月、オランダのアムステルダムで開かれた「ユーロビジョン・コンテスト」で2位の栄誉に輝いた”しあわせの”である。J・カーター作詞、G・ステファンス作曲の軽快でリズミックな曲調は彼女のイメージにぴったり、日本でもそのレコードが”悲しき天使”以来の好評をもって迎えられている。彼女の日本における地歩もこの佳曲で完全に固まってきたようだ。その好調時の来日だけに彼女の成長した歌唱への期待は大きい。

いまホプキンが第一の試練を経て第二の飛躍期へ着実向かっているのもビートルズという、つねに新しい創造への挑戦を続けるグループが接近して存在し、彼女への刺激剤になっていることも見のがせない。“しあわせの扉”にみせた最も彼女にふさわしい作品もその好影響の現われとみていいだろう。

世界の覇者となったビ−トルズは「いつかは下り坂に」という世間の予想を次々裏切っていまやクラシックの世界へも大きな影響を与えている時代だ。もはやビートルズの名は消そうにも消せない。だが女性シンガーにそうした人を求めることはいまはむずかしい。しかし、その可能性を少なくとも秘め、期待をいだかせる大歌手のタマゴは何人かいる。フォークソングにもいるだろうし、カンツォーネの世界にもいるかもしれないがその権利を持っている候補者の一人としてメリー・ホプキンの名をあげるに私はちゅうちょしない。LPl枚、話題盤シングル4枚、プロ歌手生活2年でここまで登ってきたホプキンのこと、ポップス界での前途は洋々というべきだろう。