バイオグラフィー |
ブルガリア生まれ | |
第2次世界大戦の末期、1944年8月15日にブルガリアのイスクレッツと言う小さな町で生まれた。父はフランス人でフランス大使館に勤務、母はハンガリー人である。7歳年上のエディーと言う兄がいる。 しかし、その年の9月、当時隣国のオーストリアを占領していたドイツ軍と戦うためにソビエト軍がブルガリアに侵攻し、バルタン一家は住居を接収されてしまったために、やむなくソフィアに引っ越し、シルヴィーはここで子供時代を過ごした。 1952年12月、シルヴィーが8歳の時、一家は父方の祖父の住むフランスに移住することになった。 |
歌手デビュー | |
パリに住み始めたものの、フランス語が話せないシルヴィーは学校でいじめられたりして苦労したようだが、がんばってフランス語をマスターし、11歳でハイスクールに入学した。 1961年、シルヴィーが17歳の時、すでにRCAレコードにプロデューサーとして入社していた兄のエディーが、担当の男性歌手のFranckie Jordanの新曲"Panne D'essence"(「ガス欠」)のデュエット相手としてシルヴィーを起用した。両親は、シルヴィーに語学の才能があったので芸能界入りに反対したが、この曲がヒットしため結局はRCAとソロ歌手として正式に契約し、年末にはデビュー曲「悲しきスクリーン」が発売された。 2曲目以降も、「ホワッド・アイ・セイ」「ロコモーション」と、アメリカのヒット曲のフランス語カバーが続いたが、1962年8月リリースの「おセンチな17才」はシルヴィーのための書き下ろしで、始めての大ヒットとなった。 なお、シルヴィーと言えばブロンドの髪の印象が強いが、元々は黒髪で、しかもデビュー直後はショートカットで、男の子のようであった。 |
ジョニー・アリディーとの出会い | |
当時フランスのプレスリーとして人気のあったジョニー・アリディーとは、1962年、シルヴィーがオランピア劇場に出演中に知り合った。ジョニーはシルヴィーに一目惚れしたが、そのころシルヴィーには既に彼氏がいた。しかし、ジョニーのアタックのかいあって、翌年、一緒にツアーをしたり、二人が主演の映画「ジョニーはどこへ」が公開されたころには既に恋愛関係になっていたようで、この年の8月に二人は婚約を発表した。この時、シルヴィーはまだ19歳であった。 もっとも、シルヴィーは後にジョニーに始めてあった時の印象を「この世にこんな美しい男性が居るとは思わなかった。」と語っているので、元々シルヴィーもジョニーには惹かれていたようである。 |
アイドルを探せ | |
フランスでは1963年に公開された映画「アイドルを探せ」も、1964年始めに発売されたシルヴィーのEP「アイドルを探せ」もどちらもヒットしたが、日本では「アイドルを探せ」はシルヴィーにとって特に大きな意味をもっていた。 シルヴィーの「アイドルを探せ」は映画の挿入歌にすぎず、シルヴィー自身も映画には歌手としてこの曲を歌うワンシーンしか出演していなかった。しかし、日本での映画の配給元とレコードの発売元のビクターが提携し、あたかもシルヴィーが主演し、「アイドルを探せ」が主題歌であるかのように宣伝したのである。この作戦はみごとに成功し、それまで日本でのヒット曲にめぐまれなかったシルヴィーは「アイドルを探せ」の1曲で日本中だれでもその名前を知ってる人気歌手になったのである。 |
ジョニー・アリディーとの結婚 | |
1965年4月12日、人気絶頂の二人は親しい人たちだけを招待をして極秘裏に結婚式をあげようとした。ところが、この教会の牧師が秘密を守りきれず情報を漏らしてしまったために大勢のファンやパパラッチが押しかけ、大混乱になってしまった。 |
(続く)