「角之橋」は与古道町にあった
1 はじめに
『摂津名所図会』に、次のような項目があります。
  「角之橋 津戸川に架す石橋なり。亘一間計。裏に經文を鐫る。」
しかし、正しくは現在の与古道町にあったと思われますので、その根拠となる資料を5点提示します。
2 資料5点
(1) 山崎通分間延絵図(文化3年(1806年))
赤文字は私的に書き加えた説明です。右が北です。西国街道が与古道筋の北端で右折して東川に至る途中に「字津野石橋」が描かれています。
(2) 西宮町濱絵図(通称、貞享図)---貞享元年(1684年)作製の日付あり
与古道筋の北端で右折してすぐの箇所で、西国街道が小川を渡っています。(図中の矢印の箇所)
西宮市立郷土資料館の合田氏の調査によれば、この貞享の絵図が現在知りえる最古の絵図だそうです。(同館HPによる)
(3) 西宮町浜図(通称、町浜図a)
上図と同じ箇所に橋が描かれています。しかし、逆に、川は記入されていません。
この絵図は、2番目に古い絵図だそうです。(同館HPによる)
(4) 摂陽群談(元禄14年(1701年))
次のような項目があります。
「角之橋 武庫郡西宮村。市中の北口にあり。此橋、渉一間。幅一尺の石三枚を以て造之。裏に經文を書寫す。所傳不詳。同郡津門村、歌名所、角之松原に近を以て、爲號之歟」
(5) 老の思ひ出(昭和3年(1928年))、吉井良秀著
幕末生まれの著者の思い出話しとして、次のような箇所があります。
「津野の橋と云ふ物は余が幼少の時、今の寺域(注、円福寺)より二丁許北の輿古道の街路に、僅かに板石を竝べて有って、夫れが遺跡だと聞いた。今は埋れて何も無い。」
従って、幕末には既に川は消滅していたようです。
3 まとめ
以上の5点の資料から推測すると、つぎのようになると思われます。

江戸中期以前、西国街道は与古道の北で幅一間(約1.82メートル)の小川と交差していて、板石が3枚渡してあり、角之橋(津野の橋)と呼ばれていた。しかし、幕末ころまでに小川は消滅して橋は不用になったが、板石は残っていた。その板石も、昭和の初めには既に無くなっていた。

最後に、この橋が現在のどこにあたるかを推測します。
左の地図は西宮市が市民に配布した平成16年の地図、右は昭和10年発行の1万分の一地形図です。図中の赤線はは明治時代の道、青線は上記の小川の推測流路です。
写真は西国街道を下ってきて、右折して東川堤から与古道筋に向かうところです。
中央の横断歩道の手前あたりが角之橋ではないかと推定されます。
西国街道はこの先、鳴尾御影線を斜めに横断し、2階建ての建物あたりで左折して与古道筋に入り、本町に向かっていました
4 貞享図の原本について
貞享図は、西宮市史第2巻に付図として添付されていて簡単に見ることができますが、市史編纂にあたってトレースしたものです。上に掲載したものは『老の思ひ出』に添付されているオリジナルです。
ただ、残念なことに『老の思ひ出』添付のものも原本の模写です。原本は所蔵者が紛失したため現存しません。そのあたりの経緯について、『老の思ひ出』添付のものは余白に記載されていますが、市史の付図では割愛されています。西宮市立図書館は複数の『老の思ひ出』を所蔵していますが、全て付図が切断されていていて見ることができませんので、下にその経緯の部分を掲載します。