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広西両宮絵図(貞享3年広田西宮両宮古図) |
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貞 享 古 圖 解 説 (表紙には「貞享3年廣田西宮両宮古圖解説」とあり) |
本図は貞享三年丙寅(西紀一六八六)六月に廣田西宮敢の神職一同と西宮町方演方及中村、越水、廣田三ケ村の庄屋年寄一同とが立會のもとに廣西南宮の現況繪圖を調進し大阪町奉行に進達し且は社頭や關係先に保存したもので、其の大きさ縱五尺八寸横四尺五寸仙花紙を用ゐ全部毛筆を以て詳細に圖示し彩色を施し且極めで簡単ながら説明が加へられ一目以て當時の状勢を知るには誠に恰好のものである。先づ廣田社に於て注意すべきは、共御鎭座地が昭和現在の位置で無く、今の参道南北に連なる馬場先、松並木の正面突當りの地に在ったことである。當時境内は東西廿八間、南北五十六間の長方形を成し、其中央に東西十八間、南北十二間の御築地を設け、東から住吉、廣田、八幡(中央の社殿が廣田社でなく八幡社であつたことに注意すべきである)諏訪、八祖神の順位に祀られた。此社地の北から東にかけて御手洗川が流れてゐるが屡々氾濫があつたのでこれが遷座の原因であつたと傳へられてゐる。然して享保十二年三月二十三日に現在の地に遷座されたのであつた。 本圖に神宮寺地と註されてゐる邊が現今の社地である。其南に大日堂が表示されてゐるのと共に古を偲ぶよすがとなる。 御手洗川の東手の緑色の山の土に古墳具足塚が存することや、黄色の山に須川社の在つたことや、西の方、名次社が今の地よりも南方にあり且石祠でなくて小さいながらも社殿があつたこと等も興深く眺めらるゝのである。 ・ 西宮社の方では本社三殿中央に天照大神、東殿に蛭児尊、西殿に素盞鳴命を奉祀してある。百太夫社は地の社や、神明社、竹宮跡と共に未だ境外に在つた。境内には阿弥陀堂や不動堂鐘楼なども存在したことがあつたのだが主たる布置構成に至つては概して現在と大差はない。表門北側の梅宮社には祠がなくて大本があつたこと。荒戎の社が境外西南方にあること、南門の外には鳥居跡や御會殿などあるのも注意すべく、夙川の西に「御茶屋所」といふ地があつて 古昔廣田明神南宮八幡兵庫和田之御崎エ御神幸之時此所ニテ馬揃仕侯只今者御茶屋所ト申候 とあるのは頗る徴古の資となる。境外市街四ツ角の巽位には御旅所が今の地點と同じ所にあり、松原天紳の祠には「中堤ヨリ東者津門村之社地」とあることや、鰯津社地に祠の表示なきは已に祠の他に移つたことを語るものなるべく、遠く離れた六甲山項に石寶殿として方四尺の祠の存在することゝ共に郷土史研究上、大に興味あるを覺えるのである本圖は廣田西宮両社と其関係地のみの地圖であつて、西宮の街や附近村落の状態を窺ふ上に於て遺憾の鮎がないでもないのは其性質上全く已むを得ない。 元来廣田社や西宮社を描いた繪園は此の外にも西宮本町乙馬忠右衛門開版の墨繪木版の両社圖(時代不明、永井悦蔵氏所蔵)天保頃勝部勝貫冩の西宮社圖(墨繪木版、西宮社蔵)明治初年と覺しき廣田社境内圖(肉筆彩色、廣田神社蔵)等があるが何れも本圖よりは新しいもので、現在としては此繪圖を以て最古のものと認めるのである。斯の鮎ょりして此圖を廣西両宮記の附録とするには略適當のものと考へ、出来ぅる限古色を保存することを主眼とし、精巧なる技術に俟つてこれが再生を企圖したのである。圖阪は亜鉛凸版を用ゐ更に色版を作るため凸版の捨版を作つた。これによつて即ち色版九版を彫刻し両者の刷合せで手摺は實に三十二度刷に汲んでゐる。用紙は土佐産の強靭な白雲紙を用ゐ稍古色を附けた。原圖の色彩を現はす為には摺り手は著しく苦心を要したのであつた。但元来原圖の折目等によつて磨滅せる箇所のある上、何分原圖の略1/3大に縮冩したため文字の不鮮明を來したものゝ尠からぬは誠に遺憾とする所である。それ等不明の文字は本解説の末尾に添へて置くことゝした。また道路を示す赤線に二三躙れのあるのを見受けるがこれは原圖を或る時代に糊貼した時の不手際であつて、印刷上の手落ちではない。 本圖は廣田紳杜の外西宮市役所にも一舗各員連署捺印の分を蔵してゐる。これは西宮の濱方か町方かの庄屋が持傳へたものであるらしい。廣田社の分と同時のものなることは疑ひない。同人吉井太郎も本圖の明治初年頃の葛を傳へてゐる。 原圖裏面には本圖進達の文面や當時の神職、庄屋、年寄其他の役員の記名調印がある。時代や人物を知る上に重要なる文献と思ふので凸版に製版して其位置に刷上げておいた。 印刷に現はれてゐるが不鮮明または磨滅の個所を「 」の中に収めて置くこと下の通である。 圖の東北部廣田村の北方暗緑色の山頂に註せる文字は「具足塚」廣田五社の東北位、角の小宮は「子安社」其の東北位の社は「時殿の社」廣田社参道鳥居の北は「若宮」同社西方の山地黄色の部分の北方更に長方形の褐色の部分にある文字は「東西廿一間廣田村ノ畠」どあり其東手は「東西拾間宮畠」灣入せる緑色の部分は「谷ノ田地廣田村越水村入組也谷口ニテ六問長サ七十四間」とあり。其南大日堂南手の谷間の文字は「谷ノ田地越水村ノ分也谷口ニテ拾二間長サ七拾八間」其南、褐色の部分には「越水村ノ領内東西四拾四間但此畠者廣田村ノ畠也南北四拾貳間」と書かれてゐる。 圖面の東部を流るゝ御手洗川の東、中程、鰯津社地黄色の部分の文字は「鰯津ノ社地」と書すべきを書き損じて其左に書き直せるもの池の東南部に細長く記されたる文字は「道法廣田社中ヨリ是マデ拾五町四拾二間有リ但中村領ノ中ニアリ」とあるのである。西宮社の一廓中に於ては西宮本殿三社の内西殿は「素盞鳴命」。「戎ノ御殿」と記せる左側の文字は「御拝九尺」にしてその東北の社は「火ノ大神」である、また其東北に當る濠の盡くる所の南手の文字は「土手長サ十八間廣二問」同北邊百太夫社の下は「五尺五寸、六尺」其東黄色の部分紳明社の南手は「竹ノ宮地」なり。又西宮境内の西北端濠に跨つて黒褐色の部分の中の文字は「土手社地」土塀外の西南隅、池の北にある文字は「築地ヨリ道マデ貳拾間」とある。西宮社表門の北にある車門の北側は北より「是ニテ壹間」「芝」「是ニテ二間」であつて車門南側は「築地ヨリ四問」とあり表門鳥居の南手には「築地ヨリ道マデ四間五尺」とあり其南、黄色の部分東端(濱脇筋と市庭通の出合鮎)の西には「是ニテ五間芝ノ廣サ也」とあるべきを製版の際誤つて脱落したのである。 南門を南に出た所に註せる文字は「是ニテ築地ヨリ芝付マデ八間」其の西南御會殿の地の東邊は「南北九間二尺」とあるのである。(吉井解説) 昭和四年五月 |