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 百間樋絵図 b

所蔵者:西宮市立郷土資料館
製作年:元禄7年(1694)

117.5cmX96.Ocm 上大市部落有文書
中村に残されていた絵図(=「百間樋絵図a」)とほぼ同じですが、よく見ると細かい違いもあります。まず、各村庄屋名の下には、印が押されています。黄色に塗られた村は「尼崎御領分村々」、つまり尼崎藩の領地です。白色の村は「尼崎外領ノ村々」で、尼崎藩以外の領主を持つ村です。
 『百聞樋諸書物控』などの訴訟の記録では、元禄7年6月4目前後に絵図に関する記述はありませんが、描かれた内容から、蔵人村の新樋に対する訴訟中に、百聞樋井組のうち、新樋に反対している7か村側が描いたものの写しであると思われます。
 同じく訴訟の記録の中に、土俵を使って水をせき留めているという記述が出てきますが、百聞樋の取口に描かれたものは、それを表しているのでしょうか。
---HP「西宮市立郷土資料館」第19回特集展示「百間樋訴訟記録」より

(参考)百間樋絵図 a」解説
旧中村の庄屋に残されていました。これとほぼ同じ絵図が上大市部落有文書の中にも残されています。しかし、この絵図の入っていた袋には「百聞樋絵図写入 三方立会」「大市庄組七ケ村 下大市村」という墨書があります。
 本紙には表に「大市庄組七ケ村ノ内 下大市村庄屋甚右衛門、上太市村庄屋又兵衛、門戸村庄屋治郎右衛門、高木村庄屋助兵衛、中村庄屋源左衛門、御代村助右衛門」「元禄七年戌六月四日」、裏に「中村三方立会」と書かれています。
 武庫川を中心にして、その武庫川を取口とする用水路が東西両岸に伸びている姿が描かれています。用水路と、それにつながる各村の配置関係がよく分かる図です。仁川の武庫川との合流点近くに「百聞樋筋jがあり、仁川の川床下をくぐって流れている様子も表されています。そこから上に「百聞樋井溝筋」が伸びていて、「此処せき留メ百聞樋水取申候」と描かれた場所が用水の取り口になります。そこへ流れ込んでいるのが蔵人村などを通って流れてきた古川で、この場所へ元禄6年(1693)に蔵人村が悪水抜きの底樋を新設しようとしたことで、百聞樋井組と争論になります。争論の場所には、「新樋筋」の貼紙が貼ってあります。
 道を赤色、水を青色、堤を黒色で表現しています。黄色で塗られた村は「青山御三方」、つまり尼崎藩青山氏の分家筋である旗本青山氏3家のいずれかに支配されているところです。白色で塗られているのは、それ以外の領主に支配されている村です。中村の真上に八幡宮(広田神社か)が、ひときわ大きく措かれています。
---HP「西宮市立郷土資料館」第19回特集展示「百間樋訴訟記録」より


 詳細図(北半分)  詳細図(南半分)

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