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西宮市長が兄の釈放に尽力した話(1)
この写真は、昭和27年6月13日付神戸新聞阪神版に掲載されたされたもので、宗良茂(=水木しげる)と兄嫁澄子とのツーショットです。何故このような写真が載ったのか、そのいきさつを当時の神戸新聞阪神版によって紹介したいと思います。
水木しげる著「ほんまにオレはアホやろか」(1978年)によれば、今津に住んで居た時代に、
ちょうどそのころ、戦犯で巣鴨にはいっていた兄が釈放されて帰ってきた。こうなると大家族だ。 ぼくとその細君と子ども、そして弟、それに、父母も田舎からときどき、訪ねるものだから、部屋をふやさなければならない |
とあります。その釈放に当時の辰馬西宮市長がおおいに関わっていました。昭和27年6月12日付の記事です。
戦終ってすでに七年、独立の喜びも知らず日本の片すみに忘れられた存在として鉄窓の中に寂しい日々を送る巣鴨拘置所の戦犯者の釈放は日本人自身の問題として大きくクローズアップされ、参議院でも九日「戦犯在所者釈放決議案」が可決され、兵庫県出身者二十八名に六日兵庫県婦人連合会代表者らが感激の面会を行ったが、辰馬西宮市長は全国の市長にさきがけ十一日巣鴨拘置所長に面会の嘆願書を提出したが、このかげ仁は西宮市出身元陸軍中尉日高重美氏=段上筒原四、武良宗平氏=水波町二一六が同市長に送った切々訴える望郷の痛みと、人一倍涙もろい辰馬市長の人情が秘められていたーーー さる五月二十二日東京で開かれた全国市長会議で「戦犯著即時釈放懇請」が全会一致で可決されたが、辰馬市長が帰西した翌日市長室に一通の手紙がとどいた、戦犯者として巣鴨拘留所に収容中の同市出身日高重美氏から「即時釈放決議」と郷党の知遇に対するてい重な感謝の手紙で、とくに胸うつ家庭にありてはよき父、夫・・・」の文字に市長はハラハラと感涙、即日「釈放実現のためにカの限りをつくします」と堅い約束の返事をしたためた こえて六月三日同市出身の武艮宗平氏からも日高氏と同様の手紙がとどけられた「せめて家族の方にも一目あって慰め、激励したい」と思い立った市長は十日午後激務の余暇をさいて日高、武良両氏の遺宅を訪れたが、帰庁した市長は「家族の方々の立派な心がけには頭が下ったせめて一言なりとも家族の消息を日高、武良氏に伝えたい」と巣鴨拘置所長に嘆願書を提出、十五日慰問品ととも家族の写真、記事掲載の神戸新聞をたずさえて東上することになった。 |
市長が今津水波町の武艮宅を訪問した時の話は、昭和27年6月13日に掲載されました。
独立日本の片すみにさびしく取残された不幸な戦犯者の釈は日本人自身の問題として大きくクローズアップされつつあるが、「一家の柱とたのむ夫をとられ、経済的にも、いやそれにもまして精神的な苦しみ・・・」と口をそろえて語る戦犯者「愛する父、夫、そして子帰る日まで強くたくましく生き抜くのだと決意する家族、けだかくもうるわしい戦犯家族の”愛は強し”の生きた物語があるーーー
西宮辰馬市長は去月二十二日東京で開かれた全国市長会の席上「戦犯者即時釈放墾請」を可決して帰西したが、西宮市出身日高重美氏=元陸軍大尉、武良宗平氏=元海軍大尉の切々胸うつ感謝の手紙に感激、十日二人の家族を訪れ慰めと激励の言葉を与えたが、家族の立派な日常生活をまのあたりにみて「十五日東上を機にぜひ主人にお会いして家のことをお伝えします」と堅い約束を交した、とくに武良宗平氏=同市今津水波町二一六の妻澄子さん(二七)と長女啓子ちゃん(六つ)令弟茂氏ハ(二九)幸夫氏(二七)の美しい兄弟愛に感激した市長は「弟さんたちのやさしい気持はご立派たものです、だが奥さん自身にとっては市としてなんとかお世話をしなければわたしの気持が許しません」と、生活補助金を同家に居けた、しかし澄子さんは「市長さんのご好意は胸一ぱいです、だが弟たちとともになんとか生活だけはやってゆけます、気持だけは受取れてもいただくことは申訳ございません」と十二日朝西宮市役所に届出た、宗平氏は大阪高工出身第一期海軍予備学生としてニューギニアに出陣、昭和二十三年帰還したが戦犯を間われたもので、それ以来澄子さんは愛児啓子ちゃんの生長と夫の釈放を唯一の願い靴下手編修理をし、ラバウルで左手を負傷した弟の茂氏は画家として互に励まし、なぐさめあって世の荒波と闘っている 澄子さんは講和独立の日をどんなに待ったことでしょう、皆さんのやさしい気持に感謝のほかありません、苦しかったのはこれまででした、生活の方は弟たちと力を合せなんとかやってゆけますので市長さんのご好意はよく分りますが、お受けすることは良心が許しません、夫が帰る日までどんなことがあってもがんばります、ただなにも分らない子供の心を傷けたくたい...これだけが現在のわたしの気持ですと語っている。
辰馬市長談 武良さんの立流な心がけには頭が下ります、きっと釈放が実現されるようわたくしも微力の限りをつくしたい |
ここまでならば、本人の書いた記録と新聞記事が一致していて問題はないのですが、水木しげる伝説はそんなに甘いものではありません。
(つづく) |
昭和20年代後半から30年代前半にかけて水木しげるが今津に住んでいたことは既に紹介しましたが、その後の調査で、いくつかの誤りが判明し、また新事実も発掘されましたので、この際、今津時代の水木しげるについて改めて紹介しようと思います。
まず、本年(2013年)3月、ささやかながら水木しげる宅跡を示すモニュメントができたことをお知らせします。
今津西線から今津駅前商店街に入ります。
パチンコ屋沿い、商店街が管理する街灯のうち3本目です。
「ゲゲゲの鬼太郎 水木しげる宅跡」とあります。
ちょうど街灯のあるところ、手前の自転車が並んでいるあたりが水木しげる宅跡です。
モニュメント作りのいきさつ等は、喫茶初音屋さんで聞く事ができます。
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7.還都
福原から京への還都の様子の記録は3つの日記に残されています。
『玉葉』の九条兼実は京にいましたので簡単な伝聞記事しか残していません。
次は天皇のお供として同行してした吉田経房の『吉記』です。実は半年前の遷都の時も経房は同行していました。残念なことにこの時の記事は残っていませんが、還都の部分は現存していますので、かなり詳しくその様子を知る事ができます。ちなみに、経房は有能な官吏として平氏全盛期に重用されただけでなく、頼朝や後白河院の信頼をも得て朝廷と幕府の交渉窓口も勤めました。
『山槐記』の中山忠親は還都出発より一足早く21日に福原を立って22日には京に帰っていますので、還都の記述は伝聞と言う事になります。その情報源は吉田経房かも知れません。と言うのも、忠親の妻の一人は経房の姉であり、その縁で忠親は若くして両親祖父母を亡くした経房の後見人でもあったからです。
11月23日に出門、24日に寺江着、25日に木津殿着、翌26日に入洛、と還都の日程が決まりました。
23日の出門とは、天皇が皇居から同じ福原地区内の宇治に新たに建てられた邦綱亭に行幸するだけの出門の儀のことで、実際に福原を出発したのは24日でした。遷都の時は先頭を切った清盛ですが、今回は同行せず、3日遅れの29日に入洛しました。
24日、まず高倉上皇が早朝に車で出発しました。遷都の時と同様、邦綱は上皇のお供をしています。次いで、午前8時ころ、安徳天皇が出発します。今回は母親の建礼門院(平徳子)が同乗しました。お供は遷都の時とほぼ同じで、今回も吉田経房は天皇に同行しました。後白河法皇は遷都と同様に、平資盛(すけもり)だけがお供をしました。
一行は午後2時ころ大物に到着します。舟に乗り換え、午後5時ころに寺江に到着します。天皇は邦綱の寺江亭に、上皇は法眼の山荘に宿泊します。『吉記』の山荘名の部分は判読不可能なのですが、恐らく先に藤原忠雅が利用した山城法眼の山荘かと思われます。後白河法皇は上陸せず、舟で宿泊します。
25日、寺江を立ってその夜に立寄る予定だった木津殿は、当時、宿泊や休憩、食事のために盛んに利用された施設で、現在の淀の競馬場辺りにあったと推測されます。ただし、実際には天候不良のために一行は木津まで到着できず、現在の高槻市にあたる三島江、柱本辺りで立ち往生して夜を明かし、翌日、木津には立寄らずに草津で上陸しています。
還都の一行が寺江を立ったと言う記事を最後に、寺江の名は700年以上に渡って歴史の舞台から消え、地元でもすっかり忘れ去られてしまいました。
---藤原邦綱と寺江亭 おわり--- |
6.九条兼実の福原訪問
藤原摂関家の九条兼実は、清盛の命により一度だけ福原を訪問しましたが、往路復路ともに邦綱の寺江亭にたちよっています。
ここで、当時の摂関家の家族関係を整理しておきます。
『』内は、執筆した日記類のタイトルです。
NHK大河ドラマでも摂関家の公卿が何人か登場します。
なぜかNHKはこれらの摂関家の人々を全員、家柄を鼻にかけて陰険で、知恵も知識も無いくせに人をバカにし、困難に陥るとオロオロとうろたえる、そんな風に描いています。悪意さえ感じます。しかし、実際には忠通(ただみち)は書道の法性寺流(ほっしょうじりゅう)の創始者であるし、頼長(よりなが)は有能な官僚であったし、ここで取り上げる兼実(かねざね)も「玉葉」と言う著明な日記を残したほか、有職故実にたけていたので源頼朝の世になっても重用されるなど、実像はかなり大河と違ったようです。
兼実は父の創始した法性寺流を受け継いだ能書家でもあったようで、平家に焼かれた東大寺大仏殿の再建にあたって仏舎利奉納の願文の清書を引き受けていてます。
また、晩年、兼実は浄土宗の開祖である法然上人に帰依し、「法然上人絵伝」にも詳しく描かれています。左から橋を渡ってやってきた法然を右から兼実が迎えています。
福原遷都の際の兼実の行動について、自身で「玉葉」に詳しく書いていますので、これを基に紹介したいと思います。
遷都出発の前日の1日、兼実は清盛に使者を出して「私も福原に行きましょうか?」と尋ねたところ、「宿所が確保できないので同行しなくてよい。あらためてこちらから連絡する。」と返事がありました。武家である清盛を見下し、影でコソコソと悪口を言ったり悪さをする大河の兼実とは、実像はかなり違ったようです。
勝手に都に残ると罰せられるとか、人々は次々と福原に向かっているとかうわさが広まり、6月4日、今度は清盛に同行している邦綱に、自分も急いで行った方がいいのではないかと使者を送ったところ、6日に使者が帰ってきて、ともかく宿所が無いので、あらためて手紙で連絡するとの返事がありました。2日後の8日に邦綱からの手紙が届き、「住む所が無いので、寺江の山荘に泊まり、朝早く寺江から福原に通って夜にまた寺江に戻ればよい。清盛も早く来いとおっしゃっている。」とありました。
13日午後4時ころ福原に向かって京を出発。お供は、供人5人、侍4人、近衛府の官人2人、女房4人。兼実は草津まで網代車(あじろぐるま)に乗りました。
草津から舟にのり淀川を下ります。兼実が乗ったのは邦綱から借りた舟で、水手(かこ)8人がこぐ大形の川舟でした。ただ前月の29日以来の晴天続きであちこちで水が干上がって航行に時間がかかり、明け方の4時ころにようやく寺江亭に着きました。しばらく休憩してから、午後2時ころに舟に乗って大物で上陸しました。ここで兼実は邦綱から借りた「高屋形輿」に乗ります。担ぐのは寺僧12人とあるので、腰の高さで担ぐ一般の輿ではなく、肩で担ぐ輦(れん)タイプと言うことになります。絵として記録には残っていませんが、天皇皇后以外の公卿等が乗る輿の中にも、輦のように肩で担ぐタイプがあったのかもしれません。
寺江から先は、供人4人、近衛府の官人2人、侍2人だけが供をし、あとは寺江に残しました。午後8時に福原に着き、邦綱の牛車に乗り換えて邦綱の宿所に向かいます。なにからなにまで邦綱におんぶにだっこの旅でした。なお、この夜は邦綱の宿所に泊まっています。宿所がないと言う事前の情報と食い違っていますが詳細は不明です。
翌日15日には、邦綱、吉田経房、平時忠などと面会したり、福原京の建設計画について話しあったりし、午後6時ころに福原を立って寺江に向かいます。最初は車で、のち輿に乗り換え、更に馬を使った後、今度は広田社の前で輿に乗り換えます。この広田社がいわゆる広田神社をさすのかは疑問です。寺江に辿り着いたのは10時半ころでした。
風邪ひきのため兼実はそのまま寺江に逗留し、ようやく20日に京に向かって立ちます。
(つづく)
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5.福原遷都
清盛が天皇、上皇、法皇など国家の中枢を占める人々連れて、都としてなんの準備もできていなかった福原に移動します。誰がどのように移動したのか、分かる範囲で解明したいと思います。
この移動の様子は、「平家物語」「玉葉」「親経卿記」「百練抄」などで知ることができますが、そのうち「玉葉」「親経卿記」には京を立つ時の隊列の記録が記されています。なお、「親経卿記」が活字化されたのは1994年のことですので、県史市史等それ以前の著作には「親経卿記」の記述は活用されていません。
「玉葉」によれば、京の南の出口八条から桂川沿いの乗船場である草津まで、数千の武士が二列になってずらっと並んだそうです。
先頭は清盛の屋形輿、妻の時子(二位尼、二品)の輿など。
一般に輿(こし)と呼ばれるのは腰輿(ようや)、別名、手輿(たごし)のことで6人の力者(ろくしゃ)が腰の高さで担ぎました。
前後3人ずつで、それぞれ、中央の力者が2本の長柄を結んだ白布を首にかけてから長柄を持ち、左右の二人は外側から補助しました。
次に安徳天皇の鳳輦(ほうれん)とお供の公卿四人、近衛司などが続きます。
鳳輦とは天皇および皇后専用で、12人の駕輿丁(かよちょう)が肩で担ぐ輦(れん)の一種でした。今も当時も行事用で人の乗らない神輿(みこし)は肩で担ぎますが、人が乗る場合、肩で担ぐのは天皇皇后専用の輦だけだったようです。鳳輦は輦のうち、屋形のてっぺんに金色の鳳凰(ほうおう)のかざりをつけたもので、もっとも重要な行幸の時に使われました。略式の場合は葱の花の飾りを付けた葱花輦(そうかれん)が用いられました。
「平家物語」によれば、天皇はまだわずか3歳なので本来なら実の母で高倉上皇の中宮(妻)である建礼門院(平徳子)が同乗すべきなのに、乳母で時忠の北方(妻)である帥佐(そちのすけ)が天皇を抱いて乗ったとあります。しかし、「親経卿記」には「中宮有御同輿」とあり建礼門院(平徳子)が同乗したことになっているので真偽のほどはわかりません。
安徳天皇のお供の中には、「高倉院厳島御幸記」の筆者である源通親や「吉記」の吉田経房も居ましたが、残念ながら福原までの移動の記録は残っていません。
次に摂政基通とそのお供が続き、更に高倉上皇とそのお供の公卿たちがつづきます。この中には寺江亭の邦綱もいます。
最後は、前年に無くなった重盛のか家督を引き継ぎ、平家の棟梁となった平宗盛の輿です。
淀川を下った一行はその日の夕方に河尻付近に着いて一泊し、翌日福原に向かったのは間違いありませんが、なにせ同行者による記録が無く、伝聞による簡単な情報しか残っていないため草津出向から福原までの様子はよくわかりません。総合的に判断して、天皇と上皇は「高倉院厳島御幸記」と同様に寺江で一泊し、翌日舟で大物に着いて上陸し、陸路福原に向かったと考えられます。ただし、清盛は京から草津までは間違い無く同行していますが、草津から福原までも天皇上皇と一緒であったかどうかは不明です。草津で分かれて陸路で福原へ直行、あるいは大物までは同行して海路で和田の泊まりへと言う可能性も否定出来ません。
ところで、この隊列の中に、同じくこの日に出発したはずの後白河法皇の名前が見えませんが、それは、清盛の手で鳥羽に幽閉されていた法皇の当時の状況から考えて、囚人に近い形で別に移動したからかもしれません。法皇のこの時の記録は二つ残っています。
一つは「親経卿記」で、「法皇同御幸、資盛朝臣扈従之」と書いてあり故重盛の次男の平資盛(すけもり)がお供をして御幸したことになっています。
もう一つは、数ある「平家物語」諸本の中で「源平盛衰記」にだけ書かれている次のエピソードです。
「かゝる儘には、法皇道すがら御心細く、御涙せきあへさせ給はず、ゆゝしき木影の繁き森を御覧じて、此は何なる所ぞと御尋あり。近く候ひける人、廣田大明神の社也と奏しければ、・・・」
(このようなことで、法皇は道中心細くて涙が止まらず、不吉そうに木の繁った森を見て「ここはどこか」と訪ねられたので、近くに付き添っていたものが「広田大明神」ですと答えた)
法皇は淀川を舟で下らないで、陸路、いわゆる西国街道を下り、広田神社の前を通ったことになりますが、なにぶん「源平盛衰記」にだけしか書かれていませんので信ぴょう性は不明です。
なお、清盛一族は揃って福原に移動しましたが、「親経卿記」によれば故重盛の長男惟盛(これもり)と三男清経(きよつね)は留守番のため京に残ったそうです。
当時の河尻での上陸はほぼ大物に限られていますが、京での乗船地点はさまざまです。寺江訪問者はほぼ草津で乗船または上陸しており、例外的に基房の配流が古河(古川)で乗船しています。この付近の桂川、淀川、鴨川の流れは現在とは異なっていて確実な地点は分かりませんが、現在も草津と古川の地名が残っていて、当時もその付近であったと考えても不都合はありませんので地図に示します。
桂川と鴨川が合流する草津から下流は、水量も多く、水深も深かったようで、ここからは大きい川舟が運行出来たようです。それは、桂川沿いの梅津などで乗船した旅人は、草津付近で大きな舟に乗り換えた、との記録があることからも伺えますし、手近な桂川の岸から乗船せずにわざわざ草津まで陸路で下ったのも、このような理由であったと考えられます。
(つづく) |
既に述べたように、「寺江」と言う地名が歴史に登場するのは治承3年から4年(1179年、1180年)の2年間だけで、その後約800年、現在に至るまで二度と記録にあらわれることはありませんでした。そこで、その2年間の「寺江」の全記録をここに集めてみました。(クリックで拡大できます)
1.皇嘉門院の四天王寺参詣
皇嘉門院(藤原聖子)は藤原忠通の長女で崇徳天皇の妻。実子がいなかったために異母弟の兼実やその子たちを猶子養子としてバックアップし、その結果、兼実を始祖とする九条家は摂関家として幕末までおよそ700年間栄えました。
当時は四天王寺参詣に際して宿泊の必要がある場合は渡辺津や四天王寺で泊まるのが一般的でしたが、この皇嘉門院の四天王寺参詣に際しては、四天王寺からかなり離れているにもかかわらず寺江の邦綱の山荘を利用することになり、その接待のために邦綱は前日に京を出て寺江に向かい、4月1日に皇嘉門院を迎えています。
この四天王寺参詣の記録は、父忠通の家来であった中山忠親(ただちか)の『山槐記』と異母弟である九条兼実(かねざね)の『玉葉』に記載されていますが、いずれも簡単な伝聞記事であるため、寺江から四天王寺まで移動するのに、遠回りではあるものの江口経由で舟を利用したのか、神崎渡しで上陸して陸路渡辺渡しまで移動したのかは不明です。
なお、『玉葉』の四月四日付け記事によれば、皇嘉門院は帰洛後ただちに家来に命じて参詣の様子を記録させましたが、その中に「大納言経営、過差莫大云々」とあったそうです。「大納言邦綱の屋敷はとても華美であった」と解釈すると寺江亭に対する皇嘉門院の感想と考えられます。
2.藤原忠雅の厳島参詣
元大納言忠雅の厳島参詣の様子を、同母弟で当時は中納言だった忠親が『山槐記』に記録しています。忠親は同行はしていませんから、帰還後の伝聞です。
忠雅は寺江に立寄ったとは言え、邦綱の寺江亭ではなく山城法眼の山荘に泊まっています。弟の忠親自身も後に福原訪問の途中にこの付近を数回通っていますが、寺江亭は全く利用していません。なんらかの事情があるのかもしれません。
この参詣の記録中には、ようやく大物の南の海中に姿をあらわした「尼崎」と言う地名が二ケ所登場します。ただし、この付近の写本の状態が悪く、いずれも「尼」しか判読できず、「崎」の文字は残念ながら推定です。
3.松殿(藤原)基房の備前国配流
基房(もとふさ)は、摂関家の中で目立って反清盛の行動が目立ちました。大河では細川茂樹が演じます。
藤原忠通の子供や孫達は次々と摂政関白の地位につき、近衛、松殿、九条などに分かれてその後長く繁栄を誇りました。基房はそのうちの松殿家です。
治承3年、清盛は反清盛勢力一掃を計りました。基房は摂政を解任のうえ太宰府(後に備前国に変更)に配流(はいる、いわゆる島流し)となりました。配流は死罪に次ぐ重い罪で、例え貴族であろうとひどい扱いをされたようです。舟も通常の屋形舟ではなく、粗末な舟に窓もない粗末な屋形が設けられ、その中に閉じ込められて外を見る事もできませんでした。昼夜の区別もつかず、ただ波の音が聞こえるだけで今どこを通過しているかも分からず、とても不安な旅だったようです。
と言うことで、「過寺江」とあるように、寺江はあくまでも通過点であって寺江亭に立寄った可能性はありません。
ただし、福原や西国へは、いくつかの例外を除き、大物から兵庫あたりまで陸路をとるのが一般的ですが、配流の場合はかならず舟を利用しましたから、大物付近で川舟から海舟に乗り換える必要があるはずなのですが、この基房配流に限らず乗り換えの記録が残っていません。謎が残ります。
4.高倉上皇厳島神社参詣
高倉上皇一行は、往復ともに寺江亭に宿泊しています。
寺江亭のオーナー邦綱はじめ、平家と親しかった藤原隆季、隆房、源通親などが数人が厳島までお共をしました。
そのうち、源通親(みちちか)だけが「厳島神社御幸記」としてその記録を残しています。
「厳島神社御幸記」によると、寺江には福原から唐人の乗った唐舟が迎えに来ていました。一行が寺江に着いたのは既に申時(午後4時ころ)だったうえに雨も降っていたので、この日は江の内、つまり河尻あたりを周遊しただけでした(大阪湾を巡ったと解釈する人もいますが、少し無理があります)。ちなみに「山槐記」によれば、京ではこの日は午後から大雨でした。
翌日は天候がすぐれず、天候待ちする日程的余裕もないので陸路で福原に向かうことになりました。唐舟は外洋も航行できる大形で安全な舟であるにもかかわらず海路をあきらめたと言うことは、よほど海が荒れていたのでしょうか。結局、唐舟は空で和田まで回送されました。
その陸路ですが、「厳島神社御幸記」が紛らわしい書き方をしていて経路を間違いやすいので、ここで確認しておきます。上皇は輿に乗り、他の者は馬で出立して、鳴尾の松を見たり波の音を聞きながら磯辺を進み、西宮で参拝してから福原に向かいます。これだけですと、ほぼ後の中国街道の道筋を通ったことになり問題はないのですが、困ったことに「御幸記」には出立前に「西の宮の幣たてまつらせ給。庭にて御拝あり。」と書いてあり、西宮が2箇所に登場します。
そこで、ある本は次のように解説しています。
当時「西宮」と称されたのは、現在、阪急電鉄苦楽園口駅東側の丘陵にある広田神社のことである。
このわずか一文に2つの大きな誤りがあります。まず「阪急電鉄苦楽園口駅東側の丘陵にある」のは広田神社ではなく「名次神社」で、しかも名次神社が少し南方からここに移転して来たのは明治時代のことです。もう一点、確かに当時は広田神社西宮神社をひっくるめて西宮神社と言うことはありましたが、西宮イコール広田ではありません。「イコール説」を取る方は他に見当たりません。
さらにその本は、
鳴尾は阪神鳴尾駅近くの浜辺であるから、一行は広田社からいったん南下して海岸沿いを進んだものと思われる。
としていますが、わざわざ大物→広田→鳴尾とジグザグに遠回りする理由もなく、又、少なくとも江戸初期以降にはそんな道も見当たりません。「厳島神社御幸記」だけを基に、自由に当時の西宮周辺の地理を構築されたようです。
なお、西宮イコール広田と解釈すると鳴尾から再び広田に立寄ったことになり、更に支離滅裂になるのですが、この本は鳴尾の後に西宮に立寄ったことは触れていません。自説に都合の悪い部分は省略されたのでしょうか。
木だけを見ずに森を見て、ここは「厳島神社御幸記」の記述の順序にこだわらず、大物→鳴尾→西宮→福原のコースを取り、西宮は広田ではなく文字どおり西宮を指すと考えるのが妥当なのではないでしょうか。
(つづく) |
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