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【新酒番船に使われた船(つづき)】

江戸時代末期、天保2年(1831年)の絵馬に描かれた弁財船。当時、大阪に何人も居た船専門の船絵師の手により、実にリアルに表現されています。


↑クリックで拡大できます
『図説和船史話』より

明治維新後、従来の樽廻船は早々に姿を消したために写真は残っていませんが、いわゆる北前船だけは遅くまで弁財船が使われたため、多くの写真が残っています。


↑クリックで拡大できます
『北前船と大阪』より

明治の中頃、政府は大型船の西洋化を計るために大型和船の建造を禁止しましたので、小型船以外、伝統的な和船は姿を消しました。

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【復元された北前船「みちのく丸」】

西宮市立郷土資料館にあるのは模型ですが、自力航行可能な実物大の弁財船が平成18年に完成し、NHK大河ドラマ「篤姫」にも登場しました。
今年も、東日本大震災復興支援事業として、今年も各地を航行中です。



新酒番線に使われた樽廻船とほぼ同じ大きさです。
写っている人と比べれば、その大きさが実感できると思います。

みちのく北方漁船博物館

北前船

【江戸までの航路と日数】

通常の樽廻船は大阪西宮から江戸まで平均12日かかりますが、新酒番線レースの場合は平均6日で到着しており、最速では2.4日と言う記録が残っています。


『西宮の歴史と文化』より

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【新酒番船に使われた船】

「新酒番船」は、いわゆる帆船レースですが、現在のレースと一番異なる点は、競技用に作られた船ではなく、実際に酒を積んだ商用の船が速さを競ったことです。

江戸時代、外洋を航行する大型の船は弁財船と呼ばれるタイプの船で、そのうち酒樽を積むものを特に「樽廻船」と言いました。「新酒番船」にはこの「樽廻船」が用いられました。

西宮市立郷土資料館に、「樽廻船」の1/20の模型が展示されています。



全長31mで、酒樽を1600樽も積めたそうです。

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【新酒番船パレード】

今年(2011年)も10月1日、2日に西宮神社を中心に「西宮酒ぐらルネッサンスと食フェア」が開催されました。「飲む」「食べる」が中心のイベントの中で、ひときわ派手で目を引いたのが『新酒番船パレード』でした。

赤門を出発し、約1時間、中央商店街を中心に練り歩きます。



踊りは武庫川女子大学ダンス部の皆さんです。



「ちんどん通信社」も参加した本格的なパレードです。



エビスタで口上、更に祝い舞が行われました。この様子はSakuraFMで実況中継されました。



【新酒番船とは】

ところで、『新酒番船』をご存知でしょうか?
まずは簡単に解説させていただきます。

江戸時代、江戸では灘五郷や伊丹、池田の上方のお酒が好まれました。とりわけその年の新酒が珍重され、価格も高騰するとあって、酒造業者は競って早く送ろうとし、しばしば問題が発生しました。

そこで、上方の新酒を積んだ船を一箇所に集め、一斉に江戸に向けて出発して速さを競うことにしました。そして、その『新酒番船』レースのスタート地点に選ばれたのが西宮の沖合でした。年度によってスタート地点が異なることもありましたが、結局江戸中頃から明治の初めまで毎年開催された一大イベントでした。

ゴールとなる江戸でも、『新酒番船』が到着すると、錦絵が発行されるほどのお祭り騒ぎになりました。



最初に到着した船は「愡(そう)一番」と呼ばれ、船員や船主などはもてはやされ、大きな顔で街を歩いたそうです、錦絵にも「愡一番」の連中が、踊りながら街を練り歩く様子が描かれています。



・・・さて、

『新酒番船』は西宮沖からスタートですが、今津がそのスタートにかかわったことがあります。追々説明しますので、しばらくお付き合いください。

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退院、おめでとうございます。
[ imamura ] 2011/10/02 22:33:31 [ 削除 ]
今津っ子さん
酒蔵ルネサンスの中でも『新酒番船パレード』を取り上げられたのは今津っ子さんらしいところです。久しぶりの今津っ子節が聞けて嬉しいです。徐々に慣らし運転しながらもとのペースに戻って下さい。


[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/10/02 23:19:35 [ 削除 ]
お帰りなさ〜い!
昨日下駄さんから経過をお聞きしたところでした。
ブログ、また楽しみにしてます。
[ フラモニ ] 2011/10/03 7:35:47 [ 削除 ]
★akaruさん
★西宮芦屋研究所員さん
★フラモニさん

ご心配をおかけしましたが、入院前よりむしろ元気になって帰ってきました。
今後も、マイペースで楽しく書きたいと思います。
よろしくお願いします。
[ 今津っ子 ] 2011/10/04 20:22:15 [ 削除 ]
元気になられて何よりです。おめでとうございます。

ゆっくりできましたか?笑

今津のコーヒーのおいしいお店に行かれましたか?

編集した本預けています、次号もブログから拝借していますのでまた11月にお持ちします。
楽しい記事待ってま〜す。
[ のぶやん ] 2011/10/10 22:36:27 [ 削除 ]
★のぶやんさん

無事生還いたしました。
本、受け取りました。ありがとうございます。
次号も楽しみにしています。
[ 今津っ子 ] 2011/10/14 6:54:45 [ 削除 ]
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平成5年(1993年)に今津港築港200周年事業が行われ、灯台の横にその記念碑が建てられました。



今津は、寛政5年(1793年)の築港以前から漁業が盛んで、酒の積み出しも行われていました。
従って、築港と言っても新しく港を開いたと言う意味ではなく、従来の港を改良したことは明らかですが、どこをどう改良したのか『今津物語』や今津築港200年記念誌『今津港再見』でも全く触れられていません。

そこで、築港当時の絵図を基にどんな工事が行われたか、築港前後の今津港を比べた地図を作ってみました。



今津港は、今も昔も、報徳学園のグラウンド付近にあった鯨池を水源として流れて来た新川の河口を利用したものです。私たちの知っている今津港は新川が直角に曲がって海に注ぎ込む形になっています。ところが、築港以前は新川はまっすぐ西に進み、一旦東川に合流して海につながっていました。

今津港築港とは、遠回りで不便だった航路を、最短距離で海に出られるように水路を開削することだったのです。更に、その水路が海に出る部分に、築港17年後の文化7年(1810年)に建てられたのが今津灯台です。

その課程を江戸時代の絵図で確認します。
まず、築港直前の安永8年(1779年)に作成された絵図を見てみます。



海に直接つながっていなかったことは一目瞭然です。新川と海の間には「浜地」の文字が見え、未利用地だったようです。

次に築港から約40年後の天保8年(1837年)に作られた絵図を見てみます。



元の流れに加えて、海に直接出られる水路が描かれています。併せて、新水路の西に「文政11年(1828年)御高入場所」、東に「天保4年(1833年)御高入場所」とあり、利用地になったことが分かります。

この絵図は港の部分に張り紙がしてあり、これをめくることにより新旧が比べられるようになっています。



「此所先年の姿」とあり、築港以前の状態が描かれています。

築港はこの絵図作成の約40年前ですから、伝聞や伝承ではなく、自分の目で見た港の変化を絵図に表したものだと考えられます。

元の新川の正確な流路はわかりませんが、おおよその推定ルートを現在の地図に描いてみました。



なお、かつて今津には膨大な江戸時代明治時代の古文書残っていて、今津町誌を作るために大切に保管されていました。戦時中は当時の今津幼稚園に置かれていたので空襲をまぬがれ、今津小学校に運ばれました。ところが、戦後の混乱の中、それらは古紙として全て消費されてしまいました。

今津は空襲にあったので古い記録が残っていないとよく言われますが、そうではなく、実際には住民自らの手により永遠に葬り去られたと言うのが真相です。

では、なぜ、今回紹介した絵図が残ったかですが、これは運命のいたずらです。戦前、先程の古文書の中から、たまたま数枚の絵図が持ちだされて西宮市役所の地下に保管され、更に西宮市立郷土資料館に移管されたために、今でも見ることができるわけです。

もしこれらの絵図が残っていなければ、今津港築港の真相は永久に謎のままになるところでした。

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よくこのような資料を見つけられましたね。東川に新川が流れ込んでいたなど今の地形からは想像もつきません。港が改修されたということですが、江戸へ酒を運ぶような船はどこに停泊し、どこで酒が積み込まれたのでしょうか?わかれば教えて下さい。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/12/22 21:52:09 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所員さん。
江戸時代はもちろんのこと、明治時代になっても阪神間は海岸線が砂浜で水深がなく、酒を運ぶ樽廻船のような大型船は港に入ることはできませんでしたから、沖合に停泊して小型船が往復して荷物を積み込んでいたようです。
新酒番船レースの出発点が西宮浦、今津浦等となっているのはこのことを指すのだと思います。
なお、大阪の伝法や安治川は水深があり、大型船が直接接岸できたようです。
[ 今津っ子 ] 2010/12/22 22:18:24 [ 削除 ]
樽廻船と港についてひとつ記事を書いていたのですが、西宮市史などに今津港についての記述が少なく、築港がどのような形であったのかが疑問で困っていました。これで、疑問がひとつ解けました。ありがとうございました。
それにしても、いつもながら図版が美しいですね。手間を惜しまない今津っ子さんに頭が下がります。
出来上がりましたらTBで報告させていただきたいと思います。

ところで、関係ない話なんですが、新川の主流は蓮花寺川や今津川ではなく、鯨池〜新堀川であるという解釈が通常なんでしょうか。現在の新川は寛永年間以降のものなのでしょうか。そういうところが、僕には勉強不足でよくわかっていません(汗)。ご教示いただければ有難いです。m(_ _;)m
[ 凛太郎 ] 2011/03/21 12:38:15 [ 削除 ]
★凛太郎さん。
蓮花寺川も新川の主流であると考えてもよいかも知れません。
ただ、現在では新川の起点は上甲子園中学校東で今津川と蓮花寺川が合流する地点ですが、明治時代の地形図では新堀川の方が主流として描かれています。
いずれにせよ、新川は今津村にとってやっかいものだったようで、『西宮市史』資料編掲載の「今津村明細帳」に、新川は上流の村々の悪水抜きであるのに、今津村が川の維持を引き受けさせられて迷惑だ、と言う主旨のことが書かれています。
[ 今津っ子 ] 2011/03/21 21:25:21 [ 削除 ]
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[ ちょっと歴史っぽい西宮 ]  江戸時代〜樽廻船と今津灯台 2011/03/27 18:41:11
 国道43号線と札場筋の交差点。交差点名は「西宮本町」。誰もが西宮の中心だと思う地名です。  本町

『鳴尾村誌1889-1951』に大正時代の枝川の写真が掲載されており、木造の橋が写っています。



甲子園筋が枝川だった時代、本格的な橋は旧国道にしか架かっていませんでしたので、これは旧国道の橋であると考えて間違いありません。
明治42年の地形図に、その橋が描かれています。



川が橋の先でゆるやかに左にカーブしていますので、旧国道の北から現在の阪神甲子園駅の方向に向って撮影されたものだと思われます。
枝川が埋められた時、甲子園筋部分の両側は宅地化され、現在では当時の撮影位置に立つことが出来ませんので、横断歩道上からほぼ同じアングルで撮影してみました。



旧国道は大正時代に現在のように直線化されましたが、それまでは少し北側で枝川を渡っていました。



甲子園筋のすぐ東に、旧道が少し残っています。






前回書いたように、ここを通る旅人は川の両岸にあった茶屋で休み、そこの名物の一つが「六石の餅」でした。
このブログの主旨から少し外れますが、現代の六石の餅にあたる名物が甲子園筋の東、かつての四軒茶屋の地にありますので紹介したいと思います。
地元の人たちにはよく知られた「パン・ド・カンパーニュ」のあんパンです。



美味しいのは当然として、初めて手にした人が驚くのは「重たい!!!」と言うことです。あんこだけで150gくらいあるそうです。



遠くから来てまとめ買いする人も多い上に、ここを通りかかったついでに立ち寄って買ってしまう人も見かけます。実は、私も今回の撮影のためにお店の前を通った際、たまたま焼き立てのあんパンを棚に並べているところに出くわし、ついつい1個買って食べながら撮影していました。

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貴重な、写真ですね
写真2は、我が家のすぐ近く、この場所に、私、40数年住んでいます。写っている箱に、今日燃えないゴミすてました。  自分の住んでいるところの、昔、が、分かり、何か、感無量です。
いい写真。記事、ありがとうございます。
四軒茶屋公園の掃除もしています。小さいけれど地域の憩いの場です。パン屋さんも、よく通っています。
美味しいパン屋さんです。
[ クグロフ ] 2010/11/03 23:13:37 [ 削除 ]
茶月の隣のパンやさんなのですね〜。重たいあんパン!買いにいきま〜す。
[ 美保 ] 2010/11/04 12:09:52 [ 削除 ]
クグロフさん。
気に入っていただき光栄です。
歴史のある所にお住まいでうらやましいですね。
この周辺の古い写真は他にもありますので、追々アップして行きたいと思います。
美保さん。
あんパンは、おやつ感覚でなめてかかるとエライ目に会うかも。
私は甘党なので1個はペロリですが、一般の方には150gのあんこは要注意です。


[ 今津っ子 ] 2010/11/04 20:02:01 [ 削除 ]
大の甘党です。右隅にこしあんパンの文字が…!以前住んでいた近所にも「重たいこしあんパン」があって、大好きでした。私もペロリいけると思いますよ〜。
[ 美保 ] 2010/11/04 23:09:30 [ 削除 ]
はい、こしあんもあります。
私は普段つぶあん派ですが、こしあんももちろん好きです。
以前は赤福など1箱ペロリと食べていました。
最近は寄る年波には勝てず、半分が適量になりました。
[ 今津っ子 ] 2010/11/05 0:06:08 [ 削除 ]
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江戸時代、今の旧国道は中国街道などと呼ばれ、参勤交替の大名行列も通る賑やかな街道でした。
中国街道と西国街道の合流する西宮には、本陣も備えた幕府公認の宿場が置かれました。しかし、公認の宿場だけではなにかと不便なので、街道筋の上今津にも幕府黙認の宿がありました。今の久寿川駅の北、かつて曙市場のあった辺りです。
これら非公式の宿は「間宿(あいのしゅく)」と呼ばれ、本来は休憩だけの宿でしたが、実際には宿泊設備も備えていることが多かったようです。

『今津物語』に、「今津でも麹屋・つるまという大きな街道宿があったが、大名などでも泊まれる本陣式の建物で、間口が12間もあったという。」とあります。12間は約22mですので、確かに大きな建物であったと言えます。



街道沿いに大きな建物がいくつか描かれていますので、そのうちのいずれかが宿屋であったのかも知れません。



なにぶん本陣は数日にわたって貸切となるため、宿泊希望者が重なったり川止めで日程に狂いが生じた場合、正規の本陣だけではこなしきれず、脇本陣と呼ばれる予備の本陣が必要でした。恐らく、今津にあった本陣式の建物はその脇本陣の役目をはたしていたのではないかと思われます。

本陣、脇本陣として使われる建物には条件があり、門を備えていて、大名などが駕篭にのったままで奥の間まで行ける構造になっていました。
かつては各地にあった本陣、脇本陣も、明治維新以後は不要となって次々と取り壊され、京阪神間では茨木市の「椿の本陣」を残すのみとなりました。
郡山宿本陣/茨木市公式ウェブサイト

今津の脇本陣の建物については何の記録も残っておらず、どんな建物であったか不明ですので、参考として椿の本陣の写真を紹介します。







写真は「十三のいま昔を歩こう」の新之介さんからお借りしました。
十三のいま昔を歩こう
「今津いまむかし物語」はこのサイトに触発されてスタートしました。
大阪のいまむかしに興味のある方は訪問してみてください。

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私の記憶ですが、昭和39年か40年頃までの上野町の地図には、この明治18年の地図にある旧国道とは違う(旧国道より少し北側です)少し広いクランク?になった道路の名残りがあったと思います。ショコママさんのご主人なども想い出があると思いますよ。まだ久寿川駅が木造の頃です。
[ ピース ] 2010/10/07 10:47:31 [ 削除 ]
ピースさん。
上野町はたまたまご縁がなく、最近になって時々お邪魔するようになったもので、以前の様子を知りませんので、これから追々調べていきたいと思います。
[ 今津っ子 ] 2010/10/07 19:52:02 [ 削除 ]
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今の旧国道は、江戸時代は大阪と西国を結ぶ唯一の道で、参勤交代の大名行列はもとより、商人などの旅人に至るまでみなここを通りましたので、たいそう賑やかだったそうです。

ところが、当時、今の甲子園筋は道ではなくて枝川というけっこう広い川でした。枝川には常設の橋はありませんでしたので、水が少ないときは楽に歩いてわたれましたが、ある程度以上の水量がある時は人足を雇ってかついで渡してもらうか、水かさが増すと渡し舟で渡る必要がありました。更に増水すると川止めになり、渡れるようになるまで待たなければなりませんでした。

そのような旅人のために川の両側に茶屋があり、食べ物なども提供していました。
川の東、鳴尾村側の茶屋のある辺りは四軒茶屋と呼ばれ、夏などは冷やした西瓜が名物だったそうです。
川の手前、今津村側の茶屋の名物は餅で、少し誇張されて一日に六石も売れる「六石の餅」と言われました。また、これにちなんで、この辺りは六石と呼ばれました。
また、渡し自体も、一般には「六石の渡し」と呼ばれていました。
六石の名前は甲子園六石町として今に残りましたが、鳴尾の四軒茶屋の方は四軒茶屋公園にその名を留めています。



下の地図は明治42年のものですので、既に渡しは無く、橋が架けられています。



枝川は、今の2号線の少し北で武庫川から分かれていた支流で、通常は水量は少なかったものの、大雨の時は氾濫する暴れ川だったため、武庫川を改修する一方、枝川の方は締め切って廃川することになり、大正9年から工事に着手して大正12年に完了しました。

下の写真は、渡しの少し下流、現在の甲子園駅付近を写したものです。川に水が見えませんが、大正10年撮影ですので既に上流で締め切られていたのかもしれません。
現在の甲子園駅が正式に開業したのは、大正13年の甲子園球場完成の2年後、大正15年のことです。



渡しのあった付近の現在です。



『今津物語』には古老から聞き取った逸話が掲載されています。
 「道筋に金五郎さんという大きな構えの餅屋があり、あたりの水質がよかったため餡のできがよく、味はもちろん、土用でも腐らぬ餅というので評判であった。一日に六石も餅をつくというので、地名まで六石といわれた。その餅は竹の串にさしてあったので、旅人が食べながら串を道に捨てる。その串が浄願寺から枝川までの五町の間につもり、土地の百姓などが肌足で歩いてケガをした人も多い。ついに金五郎さんの家へ餅を串にささぬように頼みにいったという話がある。」
ちなみに、江戸中期、明和6年(1769年)の『今津村明細帳』に
 「街道筋の字六石、枝川堤そばに出在家が住んでいて、農業の合間に水茶屋をしている。」(元文は漢文)
とあります。

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今津っ子さん、いつも楽しみにしています。
今日も興味深いお話をありがとうございました。
[ ショコママ ] 2010/10/03 13:05:31 [ 削除 ]
私もいつも楽しませてもらっています。
[ ちゃめ ] 2010/10/03 17:31:22 [ 削除 ]
ショコママさん。
ちゃめさん。
こちらこそ、いつもコメントありがとうございます。
とても励みになります。
[ 今津っ子 ] 2010/10/04 8:01:11 [ 削除 ]
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 桜翁

旧国道沿い、今津駅近くの浄願寺の西に桜翁稲荷があります。
祀られている桜翁についての伝承が残っています、
資料により細部がまちまちで、どれが本来の形か定かではありませんが、最大公約数的なあらすじを紹介します。

むかし、今津の浜の方にたくさんの酒蔵があったころ、夕方になると一人の老人が現れ、家々を訪ねては碁を打っていました。
上品で、碁が強いうえに話もうまく、どこの家でも歓迎されていました。
ただ「桜翁」と言う名前以外は、どこのだれかは分かりませんでした。

ある夜、老人が帰ろうとした時、土間に油揚げがあるのに気付きました。
老人はいきなりその油揚げを食べようとしました。
それはネズミ取りの仕掛けだったので老人は手を挟まれてしまい、悲鳴をあげながら外に飛びだして行きました。

あくる日、酒樽の中で前足をネズミ取りに挟まれて死んでいる1匹のキツネが発見されました。
人々は、あの老人はキツネが化けていたのだと気付きました。
何も悪いことはしていないのに、獣の本性で手を出してしまった一枚の油揚げのために死んだのはあまりにも可哀想だと、ねんごろに葬ってやりました。

それが今の桜翁稲荷です。


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お邪魔します。私が子供の頃ですが赤い鳥居が沢山あって不思議に思ったり、旧国道の南側沿いのお店には、道路の高さにお店がありますが、線路面との高低差が大きく、今では考えられないでしょうが「地下がある〜」と子供の頃は思ったものです。リクエストができるのなら、久寿川駅が木造の頃の写真があれば見たいです。
[ ピース ] 2010/07/14 15:53:34 [ 削除 ]
旧国道の高低差ですが、ちょうどコメントしていただいたので、繰り上げてアップしました。
木造時代の久寿川駅の写真は、私もずいぶん前から探しているのですが未だ見つかりません。今後も探し続けます。
[ 今津っ子 ] 2010/07/15 0:40:47 [ 削除 ]
テレビ出始めの頃、お稲荷さんの境内(裏の広場だったかも)にテレビ塔が出来、皆で見に行ったのを思い出しました。
[ ショコパパ ] 2010/07/23 8:53:18 [ 削除 ]
そう言われれば、昔あの辺りに塔のようなものがあったような気が・・・・。記憶に自信はありませんが。
[ 今津っ子 ] 2010/07/24 21:06:49 [ 削除 ]
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今津とはどこからどこまでか?
市が今津地区として扱っている地域が今津であると言う考え方もありますが、
これはあくまでも行政上の便宜のために定められたものに過ぎないとも言えます。
そこで、歴史的に見た今津と言うことで、昭和8年に西宮市に編入合併される前の今津町の範囲を紹介します。

江戸時代以来の今津村と津門村が明治22年に合併して今津村となり、後に町に昇格して今津町となりました。旧今津と津門は大字となり、引続き今津町今津、今津町津門として区別されました。

なお、合併後の昭和13年にそれまでの小字が〜〜町に整理されましたが、その際、西宮市内では異例の措置として、JR線の北を除いて町名の前に今津または津門が付けられました。

その後、昭和39年に東部の一部が、今津〜〜町から甲子園〜〜町に町名変更され、昭和46年には今津永井町が上甲子園5丁目となって、現在に至っています。

今津の歴史 | コメント( 3 )

今津っ子さん、今日も興味深いお話をありがとうございます。地図で見せていただくと本当によくわかります。
前回の久寿川市場も、少しずつ記憶が蘇ってきました。
使わなくなった脳の活性化に良いかも・・・・。
東海桜のならびに会ったカマロや久寿川市場の西入り口の珈琲館、曙市場と久寿川市場にをつなぐ細い細い道・・・あの頃に帰ることができたら、今と違う人生歩んでいるのかしらとさえ思ってしまう私です。
[ ショコママ ] 2010/07/13 8:15:40 [ 削除 ]
このような説明を読むと、久寿川駅のまわりの町名がすべて今津○○町で今津駅の周辺が、津門○○町(南側は今津○○ですが)なのかよくわかります。
久寿川駅が今津駅だったという話もご用意されていると思いますが、今津っ子さんのブログは非常によく調べられたものだけに今後も楽しみです。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/07/13 8:30:55 [ 削除 ]
ショコママさん。
思い出にふけったり、それをネタに話がはずんだり・・・。そんな風に楽しんでいただければ光栄です。
西宮芦屋研究所員さん。
見抜かれてしまいましたね。たしかに久寿川駅の話も準備中です。
[ 今津っ子 ] 2010/07/13 22:32:00 [ 削除 ]
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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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