2010/09/22 8:27:11
津門墓について、津門区有財産管理委員会発行『津門の今昔』に次のように書かれています。
「津門は阪神間でも墓地の大きさ広さでは先ず一番ではないかと思う。石碑の数約三、四千墓位はあった。当時津門の戸数百戸前後であるのに墓石が多いのは如何なる理由かと疑う人もあるでせうが、それは西宮が有する墓地が少なく整然とした墓地が無かったから西宮から津門墓地へ埋葬火葬したので自然に大きくなったらしい。当時の片田舎津門としては墓の設備も会送受場礼送受場、火葬場常任の庵寺もあり完備した墓地であった。」 |
この墓地が「西宮東墓」とも呼ばれていたのは、このような事情によります。
墓地部分を前回より拡大した地図で見てみます。
敷地の北西角に寺があるのが分かります。他に建物が2つあるのが火葬場等ではないかと思われます。
津門墓は地形図や他の地図では1つの墓地で描かれていますが、実際には「津門西墓」と「津門東墓」に分かれていたようです。
『今津物語』に
「昭和十一年には、津門西墓の五千基を、満池谷に移転させている」
とあり、更に
「昭和二十五年になって、ようやく今津の二つの墓地、今の阪急市場のところにあった「大墓」、今津公民館のあるあたりの市営住宅のたっているところにあった「今津小墓」、さらに津門宝津町あたりにあった「西宮東墓(または津門東墓)が満池谷に移ることになった。移転しなければならない今津墓地は小墓、大墓あわせて四、三〇〇基・津門東墓は六四〇基であった。」 |
とあります。
これによれば、津門墓の大部分を占める西墓が昭和11年に移転し、残りの東墓のみが昭和25年に移転したと言うことになります。
「戦時中防空ごうを掘るために穴を掘ると、人骨がたくさん出てきた」との証言があることから、既に墓地は大幅に縮小されていたことは間違いありません。
昭和10年測量地形図と戦後の昭和27年測量地形図のあいだにブランクがあり、地形図でその間の変化を追うことはできませんので、なにか別の資料で確認したいと思います。
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| コメント( 1 )
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今津を知るために、歴史的事実を客観的に書かせていただきました。
他意はありませんので、ご理解下さるようお願いいたします。
[ 今津っ子 ] 2010/09/22 17:55:56
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2010/09/21 20:25:34
旧国道沿い、阪急今津駅の東に今津大墓、西に津門墓がありましたが、昭和26年までに全て満池谷墓地に移設され、墓地は消滅しました。
よく、墓の跡地に阪急市場が建てられたと言われますが、地図のように、市場は今津大墓の跡地をわずかにかする程度で、大部分は隣接地に建てられたことが分かります。
(地図は見やすいように反時計回りに40度回転させています)
阪急今津線が開通し、それに合わせて阪神電車も今津駅を新設した直後、昭和2年の地形図を見てみます。
墓地と常願寺と間には旧国道沿いに建物が並んでいますが、駅の周りは一面の田畑だったことが分かります。また、いずれの墓も竹薮で囲まれていたそうです。
更にそれ以前、阪神電車が開通してまもない、明治42年の地形図を見てみます。
まだ今津駅は無く、墓地の西に数軒の民家、東には桜翁稲荷と常願寺があるくらいの寂しい場所であったことが分かります。
『今津物語』に、大箇在住であった松原丑末氏の手記が載っています。
「津門墓はこわい場所で、こわい火葬場もあって、よく試胆会につかわれた。ここは街道を往復する飛脚でさえも、ワキメもふらずいそぎ足で通ったところであった。日蓮宗の常願寺の門前の老樹の影に、休み茶屋があって、往来の人が弁当をつかい、夏は西瓜やまくわ瓜を井戸水で冷やして売っていた。」 |
明治22年に旧今津村と旧津門村は合併して今津村になりましたが、今津大墓は2つがまだ別々の村であったころから津門村の村地内にあり、別名「上今津の墓」からも知れるように、久寿川駅の北、今の上野神社周辺の上今津の人々の墓地として利用されてきました。
津門墓については次回に紹介したいと思います。
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2010/09/20 19:08:21
いま、今津には寺院内の墓を除くと墓地はありませんが、かつては今津小墓、今津大墓、津門墓の3つの墓地がありました。
その内、今津小墓は今津小学校と阪神電車の中間にありました。
昭和10年測量の地形図でその位置を見てみます。
(地図は見やすいように反時計回りに40度回転させています)
このころは住宅に囲まれていますが、大正以前、この辺りは村はずれの荒地でした。
いまの地図に墓の位置を重ねてみます。
この墓は2つあった今津の墓のうち、今の阪神電車より南の地区(下今津あるいは南今津、浜今津)の墓で、名前から判断すると元々は小さかったようですが、やがてこの地区の人口が増えるに従って墓地も広がり、阪神電車の北にあった大墓よりも大きくなってしまった後も小墓と呼ばれていました。
昭和7年発行、『今津第一小学校創立五十周年記念誌』に、小学校全景の航空写真が掲載されていて、今津小墓がわずかに写っています。
写真の左上を拡大すると、ぎっしりと並んだ墓石が見えます。写っているのは墓地の東端のようです。
戦後の昭和25年に墓を満池谷墓地に移転することになり、昭和26年に完了しました。
跡地には鉄筋の市営住宅が建設されましたが、現在の今津公民館のところは空き地のままで、墓地の中央にあった大きなモチの木は残されました。
さきほどの『今津第一小学校創立五十周年記念誌』掲載の、朝礼風景と思われる写真に、そのモチの木が写っています。
写真の左上を拡大します。
やがて、空き地に現在の今津公民館を建設する計画が起こり、住民からはモチの木の伐採に反対する動きもありましたが、代わりに地蔵を建立することにして、昭和40年に公民館は完成しました。
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| コメント( 2 )
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はじめましてよろしくお願いします
うちの母ちゃん 高潮町生れで今津小学校卒です
昨日から一生懸命見せてもらって楽しみにしています
[ はまやん ] 2010/09/20 23:57:49
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はじめまして。
今津小学校関係の記事はまだまだ続く予定です。
今後ともご贔屓くださるようお願いします。
[ 今津っ子 ] 2010/09/21 20:30:20
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