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現在の福応神社は、その歴史と格式に比べて小さな神社ですが、このような姿になったのは戦後のことで、かつては今よりはるかに広い敷地を持つ大きな神社でした。

そのころの写真が数枚伝わっています。







その場所は今より少し北西で、広い敷地の中に森に囲まれた立派な拝殿があり、地車も6台以上あったそうです。



さらに、紀元2600年(昭和15年)紀元事業として昭和18年に新しい拝殿が新造されました。



ところが、昭和20年8月の空襲で、神社は焼失してしまいました。

上の地図の「戦災写真」と記入した位置から撮影したものと思われる焼失後の写真があります。

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『西宮復興区画整理誌』より

写真手前が神社西南の隅にあたります。拝殿などの建物はじめ、樹木などもほぼ全て無くなっていますが、石造物は残り、写真右奥には神社東南にあった鳥居と垣が見えます。

なお、写真左奥には焼け残った常源寺の鐘楼が写っています。

当然、神社再建の話が起こりますが、戦災復興にあたって区画整理が実施されることになり、元の敷地は大部分が道路用地として収用されたために、昭和25年に隣接地に移転の上、昭和28年に社殿が再建されました。



当初は名神の出入口は野田町辺りに作られる計画でしたので、ここは中心にロータリーのある小さな交差点でした。



当時の航空写真があります。ロータリーがありませんので、昭和20年代中頃の写真と思われます。

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『西宮復興区画整理誌』より

昭和35年の『市勢要覧』にも航空写真が載っています。



その後名神を43号線に直接接続させることになり、この交差点が大幅に拡張されることになりました。

せっかく再建した社殿ですが、再び敷地が大幅に削りとられ、昭和41年に現在の社殿が竣工しました。



結局、今のような小さな規模になったのは、国道43号線、名神高速と道路建設のために2度に渡って敷地を削り取られる不運の歴史によるものです。

現在の交差点の大部分は、かつての福応神社の敷地でした。



ところで、福応神社について書かれた様々な文の中に、2点、若干誤解を招く可能性のある表現がありますので、ここで補足したいと思います。

  1.移転の時期
昭和41年に現在地に移転したと書かれることがありますが、戦後、元の位置に再建されたことはなく、再建されたのは現在地でした。昭和41年の移転は、名神建設のために本殿が敷地内で移転したことを指します。

  2.移転した距離
現在は大東町にありますが、よく、元は水波町にあったと書かれていますので、あたかも遠くから移転して来たかのように聞こえますが、実際には地図のように旧敷地と新敷地の距離は近い所でわずか10m程度ですので、隣接地に移転したら、たまたま行政区画上の町境を越えてしまったと言うのが真相です。

3つあった鳥居の行方など、まだまだ調査中のこともありますので、また改めて報告したいと思います。

今津の神社寺院 | コメント( 2 )

いいブログですねえ。努力に頭が下がります。
[ imamura ] 2011/01/03 21:52:17 [ 削除 ]
★akaruさん。
気に入っていただいて光栄です。
好きなことをやっているので、努力というほどのものではありません。
ただ時間が自由にとれないのだけが悩みです。
[ 今津っ子 ] 2011/01/04 22:23:12 [ 削除 ]
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松原神社東隣の「津門村社地」は、昭和46年の津門区有財産管理委員会編『津門の今昔』でも「元宮地」と書かれています。



宝暦4年(1751年)までここが津門神社だったこと、飯田寿作氏の記述同様に相撲場があり、北端に祠があったことが記されています。

前回、ここにあった石祠が現在は松原神社にあるとしましたが、『津門の今昔』には別の石祠の写真が「津門元宮の石祠」として掲載され、「素朴な石祠には昔、大日如来が祀ってあったともきく。現在愛宕神祭祀」と説明があって、今は津門神社にあることになっています。



現在も愛宕社は津門神社の本殿右奥にあります。石部は元のままですが扉は取替えられています。



2つの石祠のいずれが元宮にあったものなのか、残念ながら今のところは判然としません。
今後も折に触れ、調査を続けたいと思います。

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「松原如来」の名前が登場するのは平安時代のことで、その後の記録は残っていませんが、前回も紹介した『広田西宮両宮絵図』で「津門村社地」と書かれた、松原神社の東隣の地がその跡であると言われています。

長年西宮の歴史を調べておられた飯田寿作氏(明治22年〜昭和37年)の『酒都遊観記』に、次のように書かれています。
  
当時の高等小学校に筆者が通っていた自分には、ちょうど松原神社と接して東隣に丈高い枳殻で囲まれた芝生の凹地があった。俗に天神様の相撲場と呼ばれていた広場である。この広場の北隅に小さな石祠があった。この祠は広場が個人の所有に帰して邸宅が建てられる際に撤去されて天満宮本殿の北裏へ移されたのであるが、この祠が(中略)松原如来の名残であろうと推断されているのである。 

もちろん、約800年前の松原如来がそのまま残っているとは思えませんが、この石祠が松原如来となんらかに関係がある可能性が高いと思われます。

ところで、現在、本殿の北にはそのような石祠がありません。
そこで、松原神社の宮司さんにお尋ねしたところ、元はもう少し南にあった本殿を昭和49年に少し北に寄せて再建した時に、本殿左手前の榎木の根元に移設したとのことでした。





「緑の木」とあるのは榎についての説明です。祠のことではありません。

神社内にはたくさんの社がありますが、この石祠には何も祀られておらず、単なる石造物として置かれているに過ぎません。

以上、西宮ゆかりの方々よる石祠の伝承ですが、津門にはこれは違う伝承が残っています。それはまた次回に。

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津門は、万葉集に「津努(つの)の松原」とあり、その後も「角の松原」の表記で松の名所として度々歌に詠まれてきたように、古くから人の住む地でした。

かつては、津門の地は阪神線の少し北あたりが波打ち際で、西は東側より先は入り海になっており、海岸線の砂地には松が生い茂り、角のように海に突き出た半島のような形であったようです。また、その立地から、良い港でもあったようです。



現在の津門の氏神は津門神社ですが、その歴史がたどれるのは江戸時代までで、それ以前の氏神と考えられるのが平安時代の「梁塵秘抄」や「山塊記」に出てくる「松原如来」です。今の松原神社にあたります。

松原神社は別名「松原天神」「松原天満宮」から分かるように菅原道真公を祀った神社で、それは1100年代以降と言われていますので、「松原如来」とは時代が合いません。

そこで、貞享3年(1686年)に作成された『広田西宮両宮絵図』を見ると、松原天神と区別して東隣に「津門村社地」が描かれています。これは、享保10年(1725)年の『西宮神主日誌』に「津門氏神古宮地」とあり、また明治時代の地図にもここに津門の元宮が描かれているのと一致します。



元々西宮と津門は入り海で隔たれていましたが、やがて入り海が埋まるのに伴い、西宮の人たちが松原神社付近を開拓して、西宮に組み入れてしまったことと関係があるようです。

つまり、元々如来だけを祀っていた神社が、やがて全国に広まった天神様も祀るようになり、神社が西宮のものとなった後、西に西宮の天神、東に津門の如来と住み分けたと考えられます。

やがて、津門の人たちは自分たちの神が西宮の地にあるのを嫌い、新たに津門村内に新たに祀ったのが現在の津門神社だと言われています。



現在の松原神社です。



東隣の旧津門社地は民間に払い下げられ、現在は民家が建っています。



旧社地には古い石祠が残っていましたが、その行方についてはまた改めて。

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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