2010/10/14 23:16:14
敗戦後、地域の復興に寄与しようと集まったボランティア団体「今津青年文化協会」が、大関社長の長部文治郎氏の援助を得て、昭和22年10月、今津文教保育園がスタートしました。
昭和24年には園児の増加により2教室に増築されましたが、昭和30年に光明幼稚園、昭和310年に今津幼稚園が設立され、園児の減少しましたが、昭和39年に光明幼稚園が鳴尾に移転したために、再び園児が増加しました。
木造時代の旧園舎の写真です。
やがて、活発化する園の活動に反比例するように、青年団活動も転換期を迎え、昭和42年4月に土地建物を市に移管、「西宮市立文教保育所」として再出発して現在に至っています。
私立時代最後の先生方の写真です。
園舎は鉄筋の立派なものに建替えられ、かつての面影はありません。
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うわ〜〜っ!!
この保育所は私が長い間勤めた保育所の中で
9年間働いた保育所です^^今もその時のお仲間と年に数回の集まりがあるのですよ!!
矢島先生、蝉川先生は定年間近の時のお顔しか知らないのでビックリです。先生のお顔には面影があります^^
[ ショコママ ] 2010/10/14 23:48:32
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私はショコママさんとは逆に、この写真よりもっと若かった矢嶋先生しか知りません。
当時はきく組となでしこ組だったような気がするのですが、先日初音屋さんでたまたま同級生に会ったので聞いてみたら記憶がないとのことで、確認できませんでした。
[ 今津っ子 ] 2010/10/15 5:37:28
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2010/08/18 14:40:43
今から50年以上前、昭和32年の入学式です。
南から北に向って撮影されています。
校舎も周辺の風景も現在とはずいぶん違います。
名神インターチェンジのために校庭が削られる以前なので、塀の北側がすぐに国道43号線でした。
43号線はまだ開通しておらず、「今津第二舗装工事」の文字が見えます。
木造の講堂では学芸会等の行事の他に、映画観賞も行われていました。
鉄筋校舎には、一般の教室の他に音楽室や美術室等がありました。
移築保存された六角堂を除き、建物はすべて建替えられてしまいましたので、今では当時の面影もありません。
この写真は昭和38年卒業アルバムから複写しました。
当時の校歌の歌詞が写真に重ねてプリントされています。
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| コメント( 5 )
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講堂のあるところは
現在育成センターになっている場所ですね。
この西校舎(今は遊具があります)の裏側は民家との間にレンガ塀があります。
とても古いように思うので
昔のものが残っているのでしょうか。
この写真に書かれている歌は
なんでしょう。。。
小国民・・・昭和32年でもこの歌詞だったのですね。
ご存知でしたら是非教えてください。
[ ちゃめ ] 2010/08/18 15:45:21
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まだレンガ塀が残っているのですね。
古い赤レンガなら恐らく当時のものだと思います。
歌は当時の校歌です。読みやすいように写真を追加しました。
後に校歌が変わったと聞き、ビックリした記憶があります。
[ 今津っ子 ] 2010/08/18 21:47:21
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今津っ子さん
そうですそうです赤レンガです。
味のある赤レンガです。
そうかぁ〜昔のままなのか〜
やはり昔の校歌なのですね。
仰るとおり今は違う校歌ですね。
ありがとうございました
[ ちゃめ ] 2010/08/18 22:07:46
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この件に関しては全く知りませんので、何か気の利くコメントができませんが、とても貴重な画像を見せていただいたことに感謝します。もしかしてこの時代なら「キダタローさん」や「梶本りん子さん」がいたかもしれませんね。
[ ピース ] 2010/08/18 22:13:05
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ちゃめさん。
六角堂以外ではこのレンガが当時を忍ぶ唯一の建造物ということになりますね。
一度見に行こうと思います。
ピースさん。
今津ゆかりの人物のことも調べてみようと思っています。
[ 今津っ子 ] 2010/08/20 6:27:46
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