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今津にもあったパルナスは会社ごと無くなってしまいましたが、阪神尼崎駅構内にあるモンパルナスにその味が受け継がれていることが分かりましたので、改めて訪問してみました。

入口を入ったところがパン売り場で、奥は喫茶店になっています。
名物はやはりピロシキで、通販の案内が貼ってあり、また各地のデパートで出張販売もしているそうです。

もちろん、店内で食べることもできます。
1個150円で、あつあつのピロシキが出てきます。

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阪神今津駅を南に降りると、駅前広場に面して時計台のあるお店があります。

今は1階が居酒屋、2階は窓のカーテンが締められて事務所か倉庫のようになっていて時計台は似合いませんが、数年前までは1階がコトブキ、2階は喫茶店ピネで、時計台のイメージとピッタリでした。

元々この地は松月堂と言うお菓子屋さんで、昭和40年ころにコトブキになりました。この時は2階の喫茶店はまだありませんでしたが、昭和50年代に入って喫茶店が営業を開始しましたので、このころに時計台付きの現在の建物になったと思われます。

喫茶ピネは駅向きの窓が大きくて明るく、広さの割に解放感があって利用しやすいお店でしたが、ひと足早く閉店してバーに変わり、2007年ころにコトブキが閉店してエビスカレーに、そのエビスカレーもすぐに閉店して現在の居酒屋小だるまになりました。

店は変わっても、今も風見鶏付きの時計台は時を刻み続けているのは嬉しい限りです。

最近のことなのに記憶に少し自信がありませんので、お気付きのことがあればコメントをお願いします。

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喫茶ピネやコトブキが閉店した頃から、私の中では風見鶏付きの時計台も一緒に無くなっていました。この2つのお店はよく利用しました。近々改めて今も健在の時計台を見てみたくなりました。
[ ショコママ ] 2010/07/24 22:23:16 [ 削除 ]
少し離れて阪神の高架下あたりに立って、2階から上だけを見るようにすれば、一瞬、昔と同じ光景のように思える時があります。
[ 今津っ子 ] 2010/07/24 23:07:06 [ 削除 ]
ここの記憶ですが、私にはあまり残っていません。残念ながら記憶にあるのは、阪神の踏み切りを南側に渡るとスグ左(久寿川方面)に売店、切符売場で改札を抜けるとスロープを登りホームがあり、コトブキと踏み切りの間がタクシー乗り場だったような、、、くらいです。
[ ピース ] 2010/07/25 9:09:16 [ 削除 ]
たしかに今津駅が高架になる直前はタクシー乗り場でした。その前はバス停もあり、南から来たバスはここで回転してまた帰って行きました。その話はまたいずれ。
[ 今津っ子 ] 2010/07/26 20:04:23 [ 削除 ]
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   ♪パルナス パルナス モスクワの味
   ♪パルナス パルナス パルナーーース

40才くらい以上の方なら、たいていメロディーが頭に浮かぶと思います。
毎週日曜日の朝、関西テレビのアニメ枠で長年にわたって流れていたCMです。
思い浮かばないなら↓こちらをお聞きください。

音が出ない方は↓こちら
パルナスの歌


最近パスナスについて2つの事実を知りました。
 1.このCMは関西ローカルなので、他の地方では全く知られていない。
 2.パルナスは2000年を最後に全ての店が閉鎖され、会社自体無くなった。

調べてみると、今津にもパルナスの直営店があったのですが、私は知りませんでした。
場所は阪急市場の旧国道側の入口左側で、昭和60年ころに店舗がビルに建替えられた時に1階のテナントとして開店したもの3年くらいで撤退し、カマドヤに替わってしまいました。

関西各地で店舗が次々と閉店していた1990年代末に、消え行くパルナスを惜しんで立ち上げられたHPが今も2つ残っています。
パルナス非公式ホームページ
パルナス思い出の館

ところで、阪神尼崎駅の構内にモンパルナスと言う喫茶店があり、店頭でパンやケーキが売られています。
ずっとパルナスとは関係ないと思っていましたが、実はモンパルナスはパルナス創業者の実弟の店でパルナスの味を引き継いでおり、今でもピロシキが販売されていること分かりました。
美味しいピロシキ・ベーカリー&ティールーム、モンパルナス

近々買いに行こうと思います。

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はぃ〜!そうですね、誕生日やクリスマスと言えば今津のパルナスでケーキを買ってもらっていました。ろうそくで出来た坊やを貯めていましたが、、、これは関西テレビの「探偵ナイトスクープ」でも取り上げていましたね。
[ ピース ] 2010/07/20 19:08:21 [ 削除 ]
おなじみだったのですね。私はその回のナイトスクープは見てなかったので、最近はじめて知りました。
[ 今津っ子 ] 2010/07/20 19:56:41 [ 削除 ]
コチラでフルバージョンが聴けます
歌:中村メイコとボニージャックス
http://www.youtube.com/watch?v=IzsNkBQWiXE&feature=related
CDは笹舟倶楽部にあります
[ 笹舟倶楽部 ] 2010/07/20 20:17:43 [ 削除 ]
youtubeで聞けるとは知りませんでした。情報ありがとうございます。
[ 今津っ子 ] 2010/07/20 20:55:37 [ 削除 ]
私の親しくしている人の中に、パルナスの歌を最初から最後まで可愛く歌ってくれる人がいます。関西人でこの歌を歌えない人はいないと言うので、私は鼻で笑ったことがあります^^;なんて失礼な人だったのでしょう。
駅でお茶をした時、モンパルナスのピロシキを食べたことはありますが、あのパルナスと関係のあるお店だったとは・・・パルナスフアンの友達に教えてあげましょう!!
[ ショコママ ] 2010/07/20 23:11:37 [ 削除 ]
同じパルナスの歌を知っていると言っても、どのアニメの時のCMで聞いたかによって年齢が分かるそうです。ちなみに、私は関西テレビが開局したのを覚えていますので、さしずめパルナス第1世代と言うところでしょうか。
[ 今津っ子 ] 2010/07/21 11:09:16 [ 削除 ]
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現在ではメジャー・レーベルは東京に一極集中していますが、戦前は関西にも自前でプレス工場を持つレーベルがいくつもありました。その中で、戦後まで関西で生き残ったのが奈良のテイチク・レコードと西宮今津のタイヘイ・レコードでした。

テイチクはやがて東京に本拠地を移し、大手企業の傘下に入ることにより現在もメジャーの地位を保っていますが、近年まで本社所在地は奈良のままで、CD時代になってからも一部プレスは奈良で行っていました。

一方、タイヘイ・レコードも多数の歌手と契約する一方、アメリカのメジャー・レーベルのひとつ、マーキュリーと独占販売契約を結び、これを機にレーベル名をタイヘイからマーキュリーに、後に社名も日本マーキュリーに変更しました。

昭和27年の大ヒット曲、パティー・ペイジの「テネシー・ワルツ」は日本マーキュリーが発売元でした。邦楽でも、松山恵子の「だから言ったじゃない」等のヒット曲が続きました。また、後に有名になる藤島桓夫や西田佐知子もデビューはマーキュリーでした。ところが、昭和30年代入り、資本力のないのが災いして他の大手により次々と有利な条件で歌手を引き抜かれ、昭和35年には休業状態に追い込まれました。

このころ、敷地の一部を他社に売却または貸したりしていたようで、当時の住宅地図によると、
 昭和36年---新マーキュリーKK、兵庫藤井製陶KK、神戸商事KK西宮工場
 昭和38年---マーキュリーレコードKK、マイ食品工業KK
 昭和40年---マーキュリーレコードKK、ヤンマー音響西宮工場
と頻繁に変わっています。
そして、昭和46年ころ敷地の東端をホンダ系列の会社に売却しています。

レコードの自社製作をやめたとは言え設備は残っていますのでしばらくはミノルフィン、クラウン、ビクター等のプレス下請け工場として存続していましたが、昭和55年には設備を撤去してその歴史を閉じました。

日本マーキュリーの興亡については、神戸新聞に連載された記事がWEB上で公開されています。

関西発レコード120年

マーキュリーとヤンマー音響(ヤン坊マー坊のヤンマーとは別会社)との関係は、神戸新聞によると「四十年ごろからの七、八年間は、マーキュリーとヤンマー音響の同業二社が隣同士でレコードをプレスしていた」とありますが、一方、ヤンマー音響はマーキュリーと協定を結んで設備を共同使用していたと言う説もあります。設備を分割するのは現実的ではなく、住宅地図の記述も考え合わせると、隣同士説より共同使用説の方が正しいような気がします。

今では、レコード会社の痕跡も残っていませんが、かつての敷地の南西端に建つ「ヤンマーマンション」の名前に、その栄枯盛衰の名残をとどめています。

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日本マーキュリーに関しての力作ありがとう御座います。
これからも隠れた今津の古の姿を見せて下さい。
今津は、文教都市・西宮のルーツともいえる古い町で、江戸時代から多くの文人を輩出してきました。その面影を現在の姿から探し出すのは難しいですが、期待しています。地図が入った説明はすごくわかり易いです。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/07/07 22:43:27 [ 削除 ]
とりあえずは私が見聞きしたことを中心に戦後ネタが中心となりますが、あまり知られていない江戸時代や明治時代のネタもありますので、追々紹介していきたいと思います。
マーキュリーのことを初めて知ったのは40年以上前のことで、それ以来気になっていたのですが、最近情報を集め始め、今回ちょうど良い機会なのでまとめてみました、

[ 今津っ子 ] 2010/07/08 0:00:21 [ 削除 ]
今日のお話も、とても興味深く読ませていただきました。私は正直な話、パチンコやさんが多く甲子園と違いガチャガチャとしているイメージの今津は好きでなかったのですが、いろいろなお話を聞かせていただいているうちに少しずつ好きになっているような気がします。また、今津〜〜町とついた我が家の住所も・・・あの時、
甲子園上野町に反対したという祖父の気持ちも
ほんの少しわかるような・・・今後のお話も楽しみにしています。住んでいるところに愛着を持てるのは嬉しいことですね。
[ ショコママ ] 2010/07/08 5:26:41 [ 削除 ]
江戸時代の話になりますが、今津村は「上今津」(うえいまづ)と「浜今津」で構成されていて、上野町はその上今津の中心地でした。上今津は農村でしたが、参勤交代の大名行列も通る街道(今の旧国道)沿いと言うことで、小さいながら本陣もある宿場町でもありました。今津そのものとも言える上野町のみなさんが町名変更に反対されたのは当然のことと言えます。
[ 今津っ子 ] 2010/07/08 6:46:35 [ 削除 ]
今津っ子さん、拝見させて頂きまして、とても嬉しく感じております。その後ですが、同じ場所がにホンダSFに変わりましたよね?南隣は「ワシソース」でしたでしょうか、ソースの匂いが香ってましたね。小学校では「世界長」に社会見学にも行きました。ショコママさん、地域限定ですが上野町にはFさんやYさんが多かったような記憶があり、春風小学校の登校班は24班でしたっけ?浜田温泉前の「かどや」さんですが、震災後には青垣でお店をしているのを見ました、でももう10年くらい前の話です。
[ ピース ] 2010/07/08 8:09:18 [ 削除 ]
今津っ子さん、本当に参考になるお話をありがとうございます。ピースさん、おっしゃる通りです。ピースさんは以前に春風地区に住んでおられたので、いろいろとこの辺のことがお詳しいのですね?!
[ ショコママ ] 2010/07/08 8:37:28 [ 削除 ]
■コチラのサイトもオモシロイですよ

タイヘイは他社に遅れて、昭和25年6月、やっとキングから分離して独立します。おりからのジャズブームで、米国のマーキュリーと契約しますが、昭和27年8月、マーキュリーという名前がカッコイし、「国際時代」にふさわしいとかなんとかわけのわからん理由でタイヘイは、日本マーキュリーと改称。のちに本場のマーキュリーも日本に進出していますが、後者は洋盤専門。前者の日本マーキュリーとは資本的には無関係なわけです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ipsenon/record.html
[ 笹舟倶楽部 ] 2010/07/08 8:50:20 [ 削除 ]
ピースさん。
分割して売却された東1/3は、社名が変わってもあいかわらず今もホンダですね。私は記憶はないのですが、当時の地図を見ると南隣はおっしゃる通り「ワシソース」となっています。
ショコママさん。
春風地区は詳しくないので、私もピースさんの情報を頼りにしています。
笹舟倶楽部さん。
たしかにおもしろいサイトですね。貴重な情報ありがとうございます。
[ 今津っ子 ] 2010/07/08 23:39:00 [ 削除 ]
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毎晩、夕方になると踏切りの南の歩道上に古本屋さんが店開きしました。
写真で、歩道上に自転車が並んでいるあたりです。

子供が自由に行動できる昼間は開いていませんので、まだ明るい内に店が開く夏や、なにかの用事で夜に大人と今津駅に行くことがある時は、ワクワクしながら立ち寄ったものです。
少年雑誌のバックナンバーを探すのが楽しく、雑誌「少年」の古い号で「来月より新連載、鉄人28号」と言う予告記事を見つけた時は感動した記憶があります。ちなみに、そこ記事には全然別のロボットが描かれていて、当時はよくあったそうですが、予告の時点ではまだあの鉄人のスタイルは決まっていなかったのかもしれません。

ご主人は望月さんと言います。
今津の露店はいわば夜だけの出張所で、本店は久寿川駅のすぐ南にあり、夕方まだ明るい内に、大八車に山盛りの本を乗せて久寿川から今津まで運んでいる姿をよく見ました。
昭和20年代から2〜30年間営業していたと思いますが、晩年はゆっくりゆっくり大八車を引いていたような気がします。

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お邪魔します。曙市場や久寿川市場を東側に抜けた久寿川沿いの道を南へ、踏み切りを渡り釣具屋さんを過ぎて右に曲がれば北側に「望月書店」がありましたね。望月書店から甲子園球場方面のマンションに「ブリーデン」「ラインバック」が住んでいませんでしたっけ?西宮東郵便局ができるまでは久寿川駅南、43号線沿い?にある小さな郵便局をよく利用しました。阪急市場にも貸し本屋があったような記憶があるのですが、定かではありません。「今津いまむかし物語」とても楽しみです。ゆっくりでいいので、沢山教えて欲しいです。
[ ピース ] 2010/07/06 7:47:46 [ 削除 ]
私が嫁いで西宮に来たころは、たまに主人の実家に行くと、曙市場や久寿川市場が賑やかで、はじめてみた市場に驚きました。ピースさん、私も郵便局は今、東郵便局しか行かなくなりました。いろいろ地元のことを聞かせていただいて本当に楽しみですね。今日は望月書店のことで、主人と話が盛り上がりそうです。
[ ショコママ ] 2010/07/06 9:39:40 [ 削除 ]
ピースさん。
久寿川の「望月書店」は近年まで昔の店舗の面影をとどめていたような気がしますが、先日通りがかったところ、建物は変わっていました。むかしの事は、もう記憶から薄れていますし、写真や記録もあまり残っていませんが、分かる範囲内で紹介して行きたいと思います。
ショコママさん。
むかしは、曙市場も久寿川市場もほんとうに賑やかでしたね。震災後も生き残った店ががんばっていましたが、最近では久寿川駅の乗降客が激減してお店も減り、昔の面影はまったく無くなったような気がします。
[ 今津っ子 ] 2010/07/07 23:41:51 [ 削除 ]
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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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