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かつて、阪神電車香枦園駅のすぐ手前、堤防から橋のようなものが突き出ていて、途中でプツンと切れていました。
ずいぶん高さがありましたら、ここを通るたびに、誰か落ちたらエライことになるなと心配でした。

いつも古い写真をお借りしている「む〜さん」のお兄さんが昭和29年か30年頃に、写真を撮っておられました。



先端部を拡大すると、こんな感じです。



現在では、高架工事等の結果、すっかり風景が変わっています。



雰囲気からして、堤防からなにかの建物の2階か3階に直接入るための橋のようですので、大正12年の地形図を調べてみると、ちょうどこの部分に建物が描かれていました。



何の建物か気になるところですが、大正15年西宮市役所作成の地図に答えがありました。



回生病院の分院でした。

今ならこのような状態を放置して置くことは無いのでしょうが、当時はこのような危険な箇所があちこちに見られました。

(この記事は、以前に私がむ〜さんのブログに投稿したコメントを元に作成しました)

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戦後、多くの名作映画が撮影された宝塚映画製作所は、文字通り宝塚に撮影所がありましたが、昭和28年に火事で全焼したために、昭和31年まで3年間は、西宮北口の駅近く、両度町に撮影所がありました。

本日(5月8日)、西宮文学案内春季講座として、「『阪急電車』今津線大検定」が開催され、西宮時代の宝塚映画の美術スタッフであった近藤司氏を講師に招いて、当時の思い出話が語られました。そのお話をもとに、当時の地図を作成してみました。



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昨日の講演会にいらっしゃってたんですね。
私も行きましたが、映画スターさんたちのお話は
名前を聞いたことはあるけどという方たちばかりで・・・。
武庫川の松林の話はおもしろかったです。
[ にゃんこ ] 2011/05/09 8:51:52 [ 削除 ]
★にゃんこさん。
ありゃま。お会いできなくて残念。
昨日は終了後西宮芦屋研究所員さんと立ち話をしている所にフラモニさんが来られて、始めてご挨拶をすることができました。
また何かの機会にお会い出来たらいいですね。
[ 今津っ子 ] 2011/05/09 9:15:18 [ 削除 ]
この講演会に行ってみたかったです!!

今日は楽しい時間をありがとうございました。
ご想像通りの寡黙な人でいたかったのですが
期待を裏切ってしまい申し訳ありませんでした^^;;
[ ショコママ ] 2011/05/09 22:07:01 [ 削除 ]
★ショコママさん。
こちらこそ、ショコママさんはじめ楽しい方ばかりでとても素敵な一時を過ごさせていただきました。
またこのような機会があれば是非お誘いください。
[ 今津っ子 ] 2011/05/10 6:23:14 [ 削除 ]
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(続き)

市川よみうりに次のように書かれています。
 今でこそ舗装されたこの坂も、かつては、もっと勾配(こうばい)がきつく、関東ローム層と呼ばれる泥土のため、とても滑りやすい坂だった。いつの頃(ころ)からか、「この坂で転ぶと災難がかかる。その災難から逃れるためには、着ている着物の袖を、白幡神社の境内から伸びる松の枝にかけるといい」といわれるようになった。
実は、転ぶと着物の袖を切って掛けると言う伝承は、全国各地にある「袖切り(袖もぎ)」伝承と全く同じです。

袖もぎさん - Wikipedia

つまり「袖を切って掛ける」の「切る」を重視すれば「袖切り」、掛ける採れば「袖掛け」になるわけです。

東川堤の「袖掛松」が絵図に描かれた通りに西堤、つまり道沿いにあったとすれば、前を通る際に転べば袖を切って描けると言う袖切り伝承と一致しますが、今では確認のしようもありません。

************************

西宮には、「浜脇の一本松」と言う、今では知る人もほとんどいない別の一本松もありました。
その話はまた別の機会に。

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普通は、家の近所を観察しながら歩かないのですが、今津っ子さんの「袖恋の松」「袖掛松」の話やakaruさんの古い地図が出てきたので、最近はきょろきょろしながら歩いています。
東京にいた時の散歩コースの大田区洗足池の畔に「日蓮上人袈裟掛けの松」と言うのがありました。http://otaku.edo-jidai.com/432.html


[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/05/06 23:08:53 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所員さん。
西宮は歴史のある町ですから、調べてみるとあちこちの風景に物語があって面白いですね。
ただ、私たちの年齢の男性の場合、きょろきょろしながら歩く時は、不審者に間違われないように注意しないといけないのが辛いところですね。
[ 今津っ子 ] 2011/05/08 2:25:00 [ 削除 ]
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前回、東川の堤にあった「袖恋の松」を紹介しました。



ところが、最後に「袖恋の松」の名前が記された宝永2年(1705年)からおよそ100年下った文化4年(1807年)に幕府が作成した『山崎通分間延絵図』に「袖掛松」と言う松が描かれています。



その部分を拡大してみます。
「袖恋の松」は東川の東堤でしたが、この「袖掛松」は川の西堤に描かれています。



名前が「袖恋」「袖掛」と似ていること、同じく石橋(角之橋)の少し北にあったとは言え、東堤と西堤の違いがあります。明治時代には既にこの松が枯れていたのか『山崎通分間延絵図』以降は記録が無く、古老の伝承も残っていませんので、はたしてこの2本が同一の松を指すのかどうか、今のところ判断を下すことはできません。

「袖掛松」は今も4つの地域に伝承が残っています。

まずは同じ兵庫県内の姫路市に残る「袖掛けの松」伝承です。
「仮名手本忠臣蔵」によると塩冶判官高貞公の妻である顔世御前(かおよごぜん)は焚堂に入り自害をして果てました。姫路市豊富町の圓通寺近くには、自害する前に袖を掛けたとする「袖掛けの松」があります。

次は愛知県一宮市の「袖掛松」です。
同市ポータルサイトに「照手姫袖掛け松」の解説として
  室町時代中ごろ、浄瑠璃や歌舞伎などで名高い照手姫が常陸(茨城県)の城主、小栗判官助重と京都へ向かう鎌倉街道沿いの同所で、小袖を掛けて休息したと伝えられている。
とあり、石碑の写真が掲載されています。



東日本に目を移すと、千葉県木更津市に「見染めの松」、別名「袖掛けの松」があります。
同市公式ホームページ
 歌舞伎「与話情浮名横櫛」で、江戸の大店の若旦那であった「与三郎」が潮干狩りにきて「お富」に出会い見染めたといわれる場所です。その後、逢瀬を楽しむ時に着物の袖を松の枝にかけて儚い恋を語ったということで、「袖掛けの松」ともいわれています。
元の松が朽ち果てたため、今はその再現の松となっています。
とあり、写真が掲載されています。



ところで、この「与三郎」と「お富」にアイデアを得て作られた歌謡曲が『お富さん』でした。



ザリガニの何処を開けても骨董だらけのホームページ
 より

  ♪粋な黒塀 見越しの松に♪

子供心には「いきな黒兵衛、神輿の松に」と聞こえ、黒兵衛さんと松っつぁんが神輿をかつぐ歌かなと思っていたのですが違っていました。ちなみに、「見越しの松」とは塀越しに外からも見えるように家の庭に植えた松のことですので、「見染めの松」「袖掛けの松」とは別物です。

以上の3つは、ある人物にまつわる逸話に基づいていますので、結局、西宮の「袖掛松」を考える参考にはなりませんが、4つ目の千葉県市川市に残る「袖掛け松」伝承は参考になるかもしれません。

(続く)

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西宮市内で一本松と言えば、古来から度々歌に詠まれた鳴尾の一般松や、常磐町の一本松が有名ですが、江戸時代、東川の堤に「袖恋の松」と言う一本松があり、この地区のいわゆるランドマークになっていました。

もっとも、明治時代には既に枯れて跡形も無くなっていたようで、明治以降の文献には全く記述がなく、古老の伝承も残っていません。

「袖恋」と言う名前が始めて現われるのは承応4年(1655年)に書かれた『摂州名所記』の次の記述です。
 角の松原ハ西の宮町はつれ二町程東ニ有、(中略)此近所に角の石橋と云有、又西ノ宮東ノ出口橋より北ノ方袖恋といふなり。

松の名前としてではなく、地名として登場しています。「西宮ノ東の出口橋」がどの橋を指すのかこの文からだけでは特定できませんが、いずれにせよ与古道町の北、東川のほとりに「袖恋」と呼ばれるところがあったことは間違いありません。

「袖恋」の名が次に現われるのは宝永2年(1705年)に書かれた『宝永二年書上覚書帳』で、「恋」が漢字ではなくひらかなの「こい」になり、今回は「袖こいの松」あるいは「袖こい松」として登場します。
 袖こひの松と申ならハし候、松ハふとさ根廻り九尺、但し三尺ほとうへニてふたまた、南枝六尺廻り、北の枝六尺七寸、石橋近所ひかし川堤ニ御座候へ共、袖こひの松と名つけたるゆへハしりたるハ無御座候、

【解読】「袖こいの松」と呼びます。松は根元では直径90cmですが、90cmほど上で二股に分かれ、南の枝は直径60cm、北の枝は直径65cmです。石橋の近くの東川堤にありますが、何故「袖こひの松」と名付けられたかは不明です。


たまたま見つけた松の写真ですが、ほぼこのような松であったと思われます。



具体的に「袖こいの松」がどこにあったかを見てみます。

さきほどの『宝永二年書上覚書帳』に
 石橋より袖こひ松迄見し十七間、

つまり「石橋」から松まで直線距離で32mとなりますが、同書によればその石橋は西宮の北の出口、つまり与古道筋の北端から18間(34m)ですので、これによって距離は判明します。

次に、江戸時代の中頃にかかれた2枚の絵図を見てみます。





石橋から、川を渡った向こう岸に松が描かれています。絵図ですから、正確な距離は分かりませんが、位置関係を知ることができます。

これらの資料を元に現在の地図に推定位置を描いてみました。



これら江戸時代中頃の資料以降、「袖恋」の名は歴史から消え去りました。

では、この辺りの現状を歩いてみます。

今は消滅した与古道筋の北端です。左に曲がれば海清寺への里道です。



右へ曲がればすぐに東川です。



石橋のあった辺りは今は交差点になっています。中央の電柱付近が石橋です。ちなみに、この石橋は「角之橋」と呼ばれ、今では遥か南の六湛寺川に架かる橋にその名前が流用されています。



旧石橋付近から「袖恋の松」のあった方向を見ます。写真中央の電柱辺りだったと思われます。



実は、江戸時代後期の別の絵図で、この付近に「袖掛松」と言う松が描かれています。これについてはまた次の機会に。

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「袖恋の松」とはなかなかロマンチックな名前ですね。正に、歴史はロマン!身近な場所の面白い話の掘り起こし、ありがとうございます。
[ imamura ] 2011/05/01 20:27:41 [ 削除 ]
★akaruさま。
郷土資料館で少し前に西宮町浜図の写真撮影をさせていただいたお陰で、西宮市史資料編の記述が具体化してこのように報告することができました。
まだまだ眠っている資料がありますので、今後も発掘していきたいと思います。
[ 今津っ子 ] 2011/05/03 5:28:49 [ 削除 ]
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東川と六湛寺川の間の堤に数羽の鳥が止まっています。



鳩のように見えますが、実はカモです。



普通、野生のカモは地面に止まることがありませんが、この堤は例外で、鳩や雀に混ざってカモだけではなく、サギさえもここで羽を休めることがあります。それは酒蔵通と臨港線の間は堤が通行禁止になっていて、人が入ってくることが無いのを鳥達が知っているからです。人や車の行き交う酒蔵通からわずか2〜3m先で、鳩が首を丸めてのんびり昼寝をしていることさえあります。



この東川と六湛寺川の間の堤は、用海地区では「真ん中道」と呼ばれ、北は旧国道から南は今の臨港線まで通じる結構長い道でした。

昭和2年の地形図です。



ところが、戦後、43号線および福祉センター筋の開通や堤防改修のために分断され、遊歩道として残った染殿橋と松原橋用海橋との区間を除いて通行禁止になってしまいました。



戦前、この「真ん中道」は「はぜ道」とも呼ばれ、紅葉の名所でした。『酒都遊観記』にそのようすが書かれています。

*************

秋になると東川堤を南に下った二つ橋の一帯に、大きなハゼの老木が美しく紅葉する。ホンのわずかな距離であるが西宮にも、こんなに秋をいろどるところがあったのかと思われる風景であった。

*************

ちなみに、「二つ橋」とは戦前の西宮と今津を結ぶメインルートであった今津道に架かる橋で、今は酒蔵通の東川に架かる橋に「二ツ橋」としてその名前を残しています。

「はぜ道」時代の写真が数枚残っています。







ハゼの木は戦前に枯れてしまいましたが、今も遊歩道区間にはエノキの老木が残り、地元の人々の尽力で舗装を免れて地道のままであることと相まって、格好の散歩コースになっています。但し、まったく柵が無いうえに、万一転落した場合によじ登ることが出来ない高さがありますので注意が必要です。



なお、今回の調査にあたっては、用海町の喫茶「輪」の今村氏にご助言をいただきました。

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「真ん中道」ですが、用海地区の人々みなが言っていたということではなく、わたしが子どもの頃(50年以上前)に、子どもたちの間でそう呼んでいたということです。その後も子どもたちの間でだけその呼び名が継承されていたと思います。今はここで子どもが遊ぶということがなく、そう呼ぶ子どもはいないでしょう。
また、もう30年以上前にここに防護柵を設けてほしいと要望したのですが、未だに実現しておりません。是非実現してほしいのですがねえ。
[ imamura ] 2011/03/16 11:30:10 [ 削除 ]
今津っ子さん 東川沿いの櫨(ハゼ)の木ですが、戦後も阪神西宮東口の北側にも少し残っていたような記憶があります。私の親が、あの樹にさわるとかぶれるので近づけなと言っていたような記憶があります。
この東川堤のあの場所が、鳥たちがリラックスできる隠れた「サンクチュアリ」になっていたとは知りませんでした。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/03/16 17:51:14 [ 削除 ]
★akaruさん。
「真ん中道」はとても素敵な名前だと思います。
道の名前は時代により、あるいは人により様々ですので、今回は、おそらく今まで一度も活字化されたこが無いと思われる「真ん中道」を、後世への記録として使わさせていただきました。
★西宮芦屋研究所員さん。
私も、子供の頃、夙川堤を歩いていて、ウルシかハゼでかぶれてエライ目にあった記憶があります。親御さんの忠告は正しいと思います。

[ 今津っ子 ] 2011/03/16 20:21:34 [ 削除 ]
六湛寺川と津門川が合流する所には大きな鯉が何匹も泳いでいることがあります。ボラの大群も。気候がいい時に、よく孫を連れて遊びに行きます。
[ imamura ] 2011/03/18 0:02:39 [ 削除 ]
★akaruさん。
水量が多い時には、津門川でもかなり上まで魚が上がってきますね。
夜に川沿いを歩いていると、魚のはねる水音がけっこう大きく、驚かされることがあります。
[ 今津っ子 ] 2011/03/20 3:16:53 [ 削除 ]
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西宮と今津を結ぶ道は、国道43号と鳴尾御影線が戦後開通するまで、5本しかありませんでした。
そのうち、一番北寄りの道は、今の阪神線のすぐ南で西国街道から分かれて天神橋を渡り、松原天神のすぐ東で2つに分かれてそれぞれ旧津門集落の北端と南端にいたるものでした。

松原天神付近は江戸時代以来西宮でしたが、その分かれ道のところはかつて旧津門村の飛地で、広場の北隅に小さな石の祠があり、平安時代の文献にあらわれる「松原如来」の跡地ではないかと推定されています。

その地は後に払下げられて今は民家になり、石祠は移設されました。移設先についてはまだ調査中ですが、11月20日の西宮市立郷土資料館の歴史ハイキングがここを通るとのことですので、従来明確にされていなかった、西国街道と中国街道の分岐点の詳細な位置についての情報と合わせて地図を作成してみました。

プリント用サイズはこちらをクリック



明治42年に刊行された西宮から神戸までの花街ガイド『花柳界美人の評判記』に西宮遊廓関係の記録がありますので、他の資料も参考にまとめてみました。

大きいサイズはこちらをクリック



地図及び解説はすべて私の個人的見解によるものです。西宮市および郷土資料館とは無関係ですのでご承知置きください、

西宮の歴史 | コメント( 4 )

地図の伊丹街道は、旧西宮東口駅からJR西宮駅の方へ行く、ななめの道と同じと思っていいのですか?


[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/11/16 21:24:12 [ 削除 ]
そうです。そのななめの道です。
一見、駅に最短距離で行くためにななめに作られた道のように見えますが、実はそうではなく、伊丹街道は江戸時代には既にあった古い道です。
JR駅前再開発以前は2号線を越えて更にななめ道があり、坂を登るとその先に貨物取扱所がありましたが、そこが明治7年に鉄道が開通した時の西宮駅でした。
伊丹街道はその坂の手前で分かれて線路と平行に阪急今津線の手前まで続いていましたが、今はフレンテで分断されています。
[ 今津っ子 ] 2010/11/17 2:59:43 [ 削除 ]
はじめまして。凛太郎と申します。
西宮に住みまして十数年経ち、少しづつ歴史散策をしています。それを、昨年夏からブログに書きはじめました。
今回西国街道と中国街道について少し書いたのですが、その合流地点がうまく表現できず苦慮しておりましたところ、こちらの記事に出会いました。
何と美しい地図を作成しておられることか。その丁寧さに感嘆し、頭が下がる思いです。
キセルするようで申し訳ありませんが、こちらの記事をリンクさせていただきました。誠に勝手で申し訳ございません。お世話になります。
現在ブログと、他のサイトを見させていただいております。大変に勉強になります。
[ 凛太郎 ] 2011/03/13 21:59:28 [ 削除 ]
★凛太郎さん。
はじめまして。
西国街道と中国街道の正確な合流点は、今まで一度も地図上で明記されたことがないので、今回作成してみました。
ブログ、拝見しました。
読みごたえがありそうなので、順次読ませていただきたいと思います、
[ 今津っ子 ] 2011/03/16 3:47:16 [ 削除 ]
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[ ちょっと歴史っぽい西宮 ]  江戸時代〜西国街道と中国街道 2011/03/13 21:55:36
 西宮というところは、古来より交通の要衝でした。古くは務古の水門。入海が埋まってからも、街道が多く貫

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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