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事故を伝える新聞の3誌目は毎日新聞です。

これもマイクロからのプリンタですので画質が悪く見づらいのですがご辛抱ください。クリックすれば大きい画面が開きます。



写真の部分を拡大してみます。



毎日だけが、電車がホームを削ったと言う久寿川駅の大阪行きホームから撮影しています。画質が良ければとても貴重なシャットになったはずですが残念です。

毎日も朝日と同様、後続電車に言及していますが、細かい点で他誌と異なる箇所もあります。なにぶん60年以上前の出来事で、今となっては真実がどうであったか知るすべもありませんので、新聞記事の紹介はこの辺でお開きにしたいと思います。

(続かない予定)

阪急電車暴走事件 | コメント( 3 )

本日何十年ぶりでしょうか、今津駅まで行きました。覚えているのは高架前の阪急今津駅と阪神今津駅が並んでいた頃でしたが、昔よりスッキリして様変わりなのには驚きました。
[ seitaro ] 2012/02/05 15:27:47 [ 削除 ]
★seitaroさん。
高架になってまだ10年足らずですが、もう地上駅時代の細かいところは思い出せません。ちゃんと写真に撮っておけばと後悔しきりです。
[ 今津っ子 ] 2012/02/08 11:49:18 [ 削除 ]
「近鉄事件を思い出し」が興味深いですね。
しかし何故神戸新聞以外にも「北今津」が・・?マイクロフィルムの機械の画面では良く見えているのに、不鮮明にしか印刷出来ないというのは悔しいものです。毎日フォトバンクに写真があるかと思い「今津駅」で検索したら、昭和26年の写真が1枚出て来た程度でした。


13日朝の事が14日夕刊に載っているのが不思議に思いましたが、この頃は夕刊は翌日付だったんですね。読売新聞は1926年1月10日〜1943年10月9日、1949年11月26日〜1950年7月31日がそうなっているそうですが。
https://database.yomiuri.co.jp/rekishikan/help/front/rekishikan/mcu81.html

調査お疲れ様でした。事故の影響で連絡線が無くなったというのが定説なのに、その真相には驚きましたよ。
[ わらき ] 2012/02/20 0:49:52 [ 削除 ]
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最も詳しいと思われた神戸新聞の夕刊記事をベースに4回に亘って検証し、 引き続いて「阪急電車暴走事件、その後」として後日談を書きはじめました。ところが、西宮市立と神戸市立の図書館には無かった大手新聞の14日夕刊が大阪市立中央図書館にあり、神戸新聞に負けないくらい詳しく書かれていましたので、「その後」を一時中断して本編を再開します。

原紙ではなくマイクロからのプリントのうえ、大阪市立のプリンターは画質が悪いためにとても見づらいのですが、ご辛抱ください。

まずは朝日新聞です。クリックすれば大きい画面が開きます。



写真の部分を拡大してみます。久寿川駅の神戸行きホームの東側先端から阪急電車の先頭部を撮影しています。神戸新聞の夕刊と同じアングルです。



神戸新聞の記事と異なる点がいくつもあるのですが、最大の違いは後続電車の存在です。暴走を始めたのは、後続車と連結しようとした際の操作ミスが原因であったと言う主旨です。神戸新聞では朝刊夕刊ともに、後続車について全く触れられていませんでした。

(つづく)

阪急電車暴走事件 | コメント( 2 )

昭和24年の新聞は、見出しもスポーツ新聞みたいで、怪我をした人も操作ミスした人も君付けで書かれており、時代の変遷を感じます。この事故より遙かに小さい規模でしたが、昭和42,3年頃阪急夙川駅で甲陽園線が早朝車止めまで突っ込んだことがありました。それ以来、あのJR尼崎の悲惨な事故以外、運転ミスの事故は聞いたことはないのですが。
[ seitaro ] 2012/01/31 10:01:41 [ 削除 ]
★seitaroさん。
残念なことに、その後も運転ミスまた運転手の故意の無謀運転による事故は絶えませんでした。死傷者が出たことがありました。
鉄道は比較的暗安全な交通機関ですが、このような事故は根絶してもらいたいものですね。
[ 今津っ子 ] 2012/02/01 19:49:45 [ 削除 ]
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暴走事故後、車止めの強化以外は特に対策はとられませんでした。

この事故を伝える記事の中には、「事故後、時期は不明だが今津駅の連絡線は撤去された」とか、「レールを数メートル切断、その上には砂利が盛られ万一電車が停まれなくても相手側の線路に入ることがないようにされている」などの後日談が書き加えられているものがあります。

ところが、実際には阪神阪急のレールの切断は事故後約30年後のことで、事故と切断とは直接関係がありません。

事故時には2両編成だった今津線は、乗客の増加に伴い増結および大型化が進み、最大大型車6両編成にまでなりました。



以前にも掲載した、編成の短かった頃の今津駅の写真です。



当時の駅構内を図にしてみました。



やがて、編成が長くなるに伴ってホームの長さが不足するため、阪神が砂利置き場にしていたスペースを借りてホームが延長されました。この段階でもまだレールは繋がっています。



なお、ホームの延長は小型車5両になった時であったと記憶していますが、4両になった時と5両のなった時の2段階でホームが延長されたような気もします。記憶があいまいで申し訳ございません。

大型車6両になった時、そのままホームを延長すると阪神の砂利置き場を南北に分断してしまいますので、ホーム先端を曲げ、阪神の構内レールを残すようにしました。



この時点で始めて阪急阪神のレールが分離しました。昭和52年のことです。確か、この時にコンクリート製で砂利を盛った車止めが設置されたと記憶しています。

やがて、平成10年の今津駅高架化によって阪神構内への乗り入れは廃止されました。

(つづく)

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神戸新聞、昭和24年12月14日付けの記事に

加速度的にスピードを出して時速二十キロぐらいの早さで今津駅を通過、車止を突きやぶつて・・・

とある「車止め」について補足します。

事故当時の車止めがどのようなものであったかは不明ですが、いずれにせよ電車が脱線転覆せずに通過していることから、かなり脆弱なものであったと推測されます。

そこで、事故後ただちに新たな車止めが設置されたと、12月18日の毎日新聞阪神版は伝えています。



このような車止めならば、電車を停車させることはできないまでも、少なくとも脱線などの障害を発生させ、阪神線に侵入することは無かったはずです。

ところで、既に紹介した昭和25年撮影の車止めの写真と比較してみます。



頑丈な構造の車止めが、しっかりとレールに溶接されています。

事故直後の車止は応急的にレールあるいは枕木にボルト止めされていますので、すぐに強固なものに取り替えられたようです。

(つづく)

阪急電車暴走事件 | コメント( 2 )

続編ありがとうございます。
昭和25年の写真というのを見て、車止めがやや貧弱に見えるので、もしや24年以前の撮影の間違いかも?と思ったのですが、この記事でスッキリしたのでした。

話はそれますが、地域の歴史の写真集って結構撮影年代の推定がいい加減な物があります。

・「目で見る西宮の100年」の「市役所から国道2号を望む」の写真、「昭和30年頃」となっています。でも、写っている113系電車が京阪神に入ったのは昭和39年だそうだから正しくはそれ以降のはず。

・同書の西宮東口駅の写真は「昭和25年頃」、宮っ子02年10月号では「大正初期」(明らかに後者が近い)http://bit.ly/zwm8Qp

・「目で見る尼崎の100年」(00年)の武庫川駅の下で遊ぶ人たちは「昭和初期」、「西宮の今昔」(09年)では「昭和29年」。

・「西宮の今昔」の西宮北口駅の写真、大正9年(出来た年)撮影というのは昭和11年の大社村誌に同じ写真が現況のような雰囲気で載っているので少し怪しい。他にも、「西宮の今昔」は新しい車が写っているのに戦前にされてる写真があったりしますね。
[ わらき ] 2012/01/19 1:36:05 [ 削除 ]
★わらきさん。
確かに、写真の撮影年には不正確なものもありますね。
私も、できるだけ写真自体に年代を知ることができるヒントが含まれていないかを観察するようにしていますが、なかなか難しいですね。
[ 今津っ子 ] 2012/01/20 10:41:17 [ 削除 ]
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念ずればなんとやら。。。

探せばあるものですね。

以前、阪急電車が暴走、今津駅を通過して阪神の線路に入り込み、久寿川駅でようやく停車した話をしました。

阪急電車暴走事件(1)
阪急電車暴走事件(2)
阪急電車暴走事件(3)

その時は、神戸新聞に掲載されていた、今津駅に引き戻されてから撮影されたと思われる小さな写真しかありませんでした。

ところが、同じ14日の夕刊神戸に、久寿川駅に停車中の阪急電車の写真が載っていました。



かろうじてですが、「久寿川」と読める駅名板が写っています。

さらに、この夕刊神戸には、朝刊とはまた違う記者の筆によると思われる記事が掲載されています。



現在ではほぼ同じ内容の記事が朝刊と夕刊の両方に掲載されることはありませんが、当時としてはありえることでした。

と言うのも、終戦後、新聞は朝刊のみ、しかも基本的に1枚だけと言う期間が続きました。やがて昭和24年に夕刊が復刊されることになりましたが、それは朝刊と一体ではなく、朝刊とは別、今の夕刊紙という形を取りました。したがって、名前も「夕刊神戸」「夕刊朝日」となり、しかも朝刊とは別の購読契約が必要でした。

さしずめ、今の「サンケイ」と「夕刊フジ」のような関係にあたるわけで、朝夕両方に掲載されても不思議ではありません。

ちなみに、どこの図書館も昭和24年から昭和25年にかけての夕刊が欠けていることがあります。豊富な神戸新聞のバックナンバーを所蔵している西宮市立中央図書館にも、さすがに昭和24年の夕刊は無く、神戸市立中央図書館所蔵のマイクロフィルムでこの記事を発見しました。

ところで、このように西宮のことを神戸新聞で調べていてつくづく思うのは、地方紙は本当にありがたいなと言うこことです。今回の事故の記事でも、例えば朝日新聞での扱いはこんなものでした。



これからも神戸新聞に感謝しつつ利用させていただきたいと思います。

阪急電車暴走事件 | コメント( 7 )

今津っ子さんはコツコツとよく足を運ばれますね。
[ imamura ] 2012/01/09 11:53:58 [ 削除 ]
★imamuraさん。
気になったら、ついつい調べに行ってしまうのが僕の悪いクセ。。。(杉下右京風)
めんぼくない。
[ 今津っ子 ] 2012/01/10 19:32:26 [ 削除 ]
今日はご来店ありがとうございました。
「鳳城の花嫁」は「邦画界に初めて登場したワイドスクリーン映画第1弾作品。」ということのようです。わたしの記憶、半分当たっていました。
[ imamura ] 2012/01/11 21:10:11 [ 削除 ]
★imamuraさん。
あの後行った図書館で、偶然、その「鳳城の花嫁」の新聞広告に遭遇しました。
日本初の、いわゆるシネマスコープ作品でした。
広告はこちら↓
../../../style/photo/ootorijo.jpg
シネマスコープと言う名前がパテントの関係で使えないので、各社、東映スコープや東宝スコープなどとバラバラの名前で呼んでいたそうです。
[ 今津っ子 ] 2012/01/12 14:16:37 [ 削除 ]
大きな画面やなあ、と思いながら見た記憶があります。大友柳太郎の笑顔が印象的でした。
[ imamura ] 2012/01/12 21:08:59 [ 削除 ]
★imamuraさん。
ご覧になったんですか。
おみそれしました。
[ 今津っ子 ] 2012/01/14 6:53:15 [ 削除 ]
★わらきさん。
はじめまして。
お知らせありがとうございます。

夕刊神戸、夕刊朝日などの期間は短かったので、図書館によっては通常の神戸新聞や朝日新聞の夕刊と同様に製本あるいはマイクロ化されていますので、検索では拾えないかもしれません。

wikipediaに取り上げられるとは思いませんでした。ここは鉄分の多くないブログですので、この事故のことはこのあたりで終わるつもりでしたが、もう少しだけ付け加えようと思います。

まずはわらきさんも読まれた毎日新聞18日付けの続報を紹介し、続いて、「事故後、時期は不明だが今津駅の連絡線は撤去された」と言うwikipediaの説明の検証、さらには今津駅の急カーブが後々阪急電車の車両デザインに及ぼした影響について補足したいと思います。
[ 今津っ子 ] 2012/01/14 22:50:27 [ 削除 ]
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次に運転手の談話です。

動きだしたので、あわてて飛び乗り手歯止をさがしたが見つからず・・・

車両が勝手に動き出さないように車輪にはめる道具で、通称「ハンドスコッチ」と言います。

1両に1組しか装備していませんから、慌てていると見つけられないかもしれません。当時は車内に装備していたようですが、現在、阪急電車では車両先頭の床下に派手に黄色に塗られてぶら下がっています。



しかし、なによりも大事なのは、「ハンドスコッチ」は止まって場合にだけ有効で、動きはじめてしまった車両に対しては何の効果もないことです。ハンドスコッチでは電車は止まりません。

運転手は。次の行動に移ります。

そのうちにスピードが加わつて来たのでお客さんに手傅つてもらってハンド・ブレーキを回したがこれもかからず・・・

通常、電車を止めるには圧縮空気を利用した「空気ブレーキ」を使います。ただし、今回のように空気ブレーキが使えない場合のため、人力による「ハンド・ブレーキ」を装備していました。運転席にあるハンドルを人力で回して止めようと言う代物で、路面電車のように低速でトロトロ走る小型車ならいざしらず、重さ約40トンの大型電車を人力で止められずはずもなく、現在の電車にはもちろん付いていません。

別の電車の写真ですが、運転席にこのようなハンドルか、井戸を手動で汲み上げるハンドルのようなものが付いていました。



乗客に「前は危いから後ろの車に移つてください」といい・・・

福知山線事故の例もあるように、後ろの車両の方が安全とは限りません。

この事件では、今ではとても実名報道できないような行動で負傷した2名を除き、死者負傷者無く、ことなきを得ましたが、この事件の約20年後、富士急行で起った列車暴走事故では、乗務員が乗客を後ろの車両に誘導したためかえって被害が大きくなると言ういたましい事態になりました。

1971年(昭和46年)3月4日
午前8時25分ごろ富士急行大月線月江寺駅の富士吉田駅(現:富士山駅)方踏切(緑ケ丘第二踏切。大月駅起点21.990km。第1種自動)で、河口湖発大月行き電車(3100形3103+3104)が、踏切内に進入した小型トラック(積み荷の落下に気を取られブレーキ処置をしないまま運転者が下車したため、転動し遮断機を突破したもの)と衝突。車両の下に引きずり込まれたトラックが空気溜めを破損したためブレーキが全く使えなくなり、電車は逸走し約4kmを暴走。月江寺 - 暮地(現在の寿)間の4駅を通過した後、暮地 - 三つ峠間(最急40‰の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入し、進行方向左側の沢に転落し、後部車両が大破した。乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷した。(Wikipediaより)

後部車両に誘導しなければ被害を少なくできたかどうかわかりません。しかし、日本では、アメリカと違って、転覆事故の際にまで乗客の安全が守れるような強固な車体は不要と言うことになっていますから、福知山線事故の例を見ても分かるように、車体がちゃちな以上、逆に追突、脱線、転覆などがないようにしっかりと対策をとってもらいたいものです。

(完)

阪急電車暴走事件 | コメント( 4 )

いつもお世話になりっぱなしで誠に恐縮です。また引用させていただきました。この事件の検証で、これ以上のものはないでしょう。本当にいつもすみません。
しかし、これは恐ろしい事件ですね。
車両構造の知識がなくこのようなことがありえるのかどうかは分かりませんが、もしも逆に北口方面へ暴走を始めダイヤモンドクロスに突っ込んだとしたら…。状況によっては大惨事の可能性もありました。この程度で済んで良かったとみるべきなのでしょうか…。
[ 凛太郎 ] 2011/11/20 6:49:14 [ 削除 ]
★凛太郎さん。
こちらにリンクしていただきありがとうございます。
北口方面に暴走したとすると、ダイアモンドクロスのすぐ手前に脱線ポイントがありましたので、そこで脱線して急減速するようになっていました。もちろん、クロスまでに停止しきれたかどうかは定かではありません。
なお、「ちょっと歴史っぽい西宮」で紹介されていた西宮ガーデンズ「にしのみや写真館」の写真は、西宮北口駅北東の連絡線です。写っている改札口は東改札口です。
北西の連絡線写真は、いつも私が写真をお借りしているむ〜さんのサイトにあります。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link172-02.html
北西の連絡線は複線で、神戸方面からスムーズに宝塚方面に行くことができました。
写真の電車が止まっているのは7番線で、8番線ホームからも乗降できるようになっていました。
昭和30年代にまず8番線が廃止になり、ついで、7番線が行き止まりになりました。
ちなみに、北東の連絡線が9番線と呼ばれるのは、かつて8番線が北西にあったからです。
[ 今津っ子 ] 2011/11/21 11:25:28 [ 削除 ]
ご教示ありがとうございます!
早速自サイトで訂正を致しました。ただこちらの都合で誠に申し訳ないのですが、味もそっけもない追記しか書けませんでした。ごめんなさい。
(あのブログにも字数制限がありまして、あの記事を16000字ギリギリで書いてしまったために、新たに文字列が挿入できないんです^^;)
む〜さんのサイト拝見させていただきました。こういう写真の数々、本当に貴重ですね。こういう資料をupされておられる方々には本当に敬服します。

新聞の「幻の路線」は、やはり煽り過ぎのように思えます。ただ、新聞は昭和43年廃止としていたのですが、30年代だったのでしょうか。それならさらに訂正が必要となるのですが。
北口駅の番線表示って、ややこしいですね(汗)。番線ではなく号線で呼称したりもしますし。現在の8番線って、球場前踏切を通るあの地上線ですよね。

[ 凛太郎 ] 2011/11/22 6:16:52 [ 削除 ]
★凛太郎さん
西宮北口駅の構内配線はややこしいかも知れません。近々、このあたりについて記事にするつもりで準備中です。
[ 今津っ子 ] 2011/11/26 3:24:09 [ 削除 ]
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[ ちょっと歴史っぽい西宮 ]  昭和〜廃線跡(?)ウォッチ4 2011/11/20 6:45:57
 西宮ガーデンズの北側に、高松ひなた緑地という小公園があります。  高松ひなた緑地  ここに

事件について、少し解説をしたいと思います。

加速度的にスピードを出して時速二十キロぐらいの早さで今津駅を通過、車止を突きやぶつて・・・

阪急と阪神のレールはつながっていましたが、境界線にあたるところに「車止」という構造物がありました。

事件の翌年、昭和25年の今津駅の写真です。東から西を見ています。写真の左半分が阪神の梅田方面行きホーム、右半分が阪急のホームです。


西宮市役所蔵、「今津の今昔」より

阪急のホームを拡大してみます。



阪急や阪神の梅田駅の先端にあるような電車を強制的に止める装置ではなく、単なる目印程度のものですから、いとも簡単に電車が突破したのも納得できると思います。

しかし、前年にこのような事件があったのにもかかわらず、性懲りも無く元通りに復旧しただけで運転を再開したあたりに時代を感じます。

久壽川駅でボデイの大きさが違うため同駅のホームを破壊してやつと停車した

現在の阪神の電車は巾が2m80cmで阪急神戸線や今津線より10センチ近く広いのですが、昭和24年当時は巾が2m30cmしかない小型車ばかりでしたので、当時すでに巾2m70cm近い大型車が走っていた阪急今津線に比べてホームの先端が約20センチ飛び出ていました。

このため、電車は久寿川駅ホームのこの飛び出ていた部分を破壊して停車しました。



ちなみに、この事件の3年後、それまで小型車ばかりだった宝塚線を大型化したのとひきかえに、宝塚線から巾2m40センチの小型車が今津線にやってきました。もちろん、そのままではホームとのすきまができて乗り降りが危険ですので、扉の部分に木製のステップがつけられました。

もし、この事件が今津線電車の小型化後であったなら、暴走電車は久寿川駅では止まらずに甲子園駅に向かい、坂を上りきれずに坂を下って再び今津方面に逆戻りしたかも知れません。

この暴走した600型は、大正15年、日本初の全鋼製電車(構造物に木を使っていない)として製造されました。



このため、このころの電車が老朽化のため廃車解体されている中、1両が阪急正雀工場で1保存されています。

(つづく)

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「昔、阪急今津線の電車が暴走して阪神電車の久壽川まで走ったことがある」

そんな話を聞いたことがある方も多いと思います。ただ、その後、この事件が詳しく報じられることがありませんでしたので、あやふやな情報ばかりが伝わっています。

そこで、事件の翌日、昭和24年12月14日の神戸新聞の記事を元に、どのような事件であったかを検証してみます。



まず、事件のあらましを図にしてみます。



少し長いですが、記事全文を引用します。


阪急電車 暴走・阪神路線へ
車止めを突破、久壽川駅まで突っ走る


十三日午前七時半ごろ阪急電鉄宝塚発今津行六〇三、六〇八号二両連結車=運轉手山村政一さん(三四)車掌谷春雄さん(二四)=が事故のため客を乗せたまま北今津停留所に停車中、五分ぐらいして車が自然に動き出し、そのまま加速度的にスピードを出して時速二十キロぐらいの早さで今津駅を通過、車止を突きやぶつて阪神電車との連絡ポイントをねじまげ、そのまま阪神電車のレールを突進、約七百メートル離れた久壽川駅でボデイの大きさが違うため同駅のホームを破壊してやつと停車した

その間同電車に乗合せていた約三十人の乗客は「窓を開けろ」と騒ぎ出し、一両目に乗つていた伊丹市堀池、工員山口秀昭君(二〇)武庫郡良元村、同工員山田盆男君(二〇)は相次いで電車から飛出したため山口君は頭部打撲裂傷二週間、山田君は腰部打撲傷三週間の傷を負つたが、他の客は運轉手らの制止で床にへたつていたので幸い負傷者は出なかつた

このため阪神電車は上り線が封鎖され、折柄のラツシュに各駅は混雑を呈し、下り線の單線運轉により乗客輸送に努めまた阪急、阪神双方から繰出した工夫数十名により故障車の後退作業を行い、二時間後の同九時四十分ようやく終点今津駅にもどし、阪神電車も復旧した、西宮署では山村運轉手、谷車掌らを取調中であるが、原因はエヤータンクの故障から圧力が下り、北今津駅で停車中折から出勤途上の阪急電鉄西宮車両部嶮車係鷹野実君(二二)が修理の手傅いをしたが、補助タンクの空気を抜いたのでブレーキがゆるみ下り勾配の駅から電車が動き出しこの騒ぎとなつたものと見られる

恐怖を語る関係者

【運轉手山村政一さん談】北今津で事故を調べるため電車の下にもぐつていると動きだしたので、あわてて飛び乗り手歯止をさがしたが見つからず、そのうちにスピードが加わつて来たのでお客さんに手傅つてもらってハンド・ブレーキを回したがこれもかからず、乗客に「前は危いから後ろの車に移つてください」といい、今津駅の車止を突破したときは無我夢中でした

【負傷した山田・山口両君談】出勤のときでしたが北今津で停り、五分ぐらいして動き出したのでなおったものと思っていたが、今津駅のカーヴをものすごいスピードで通過する時分から乗客がさわぎだし、このままでいたら危いと思つたので夢中で窓から飛びだしました


現在、今津駅は高架になっていますが、当時は阪神国道駅(記事では誤って北今津)を出た電車は坂を下り、地上の今津駅にむかっていました。

昭和29年の写真です。電車が坂を下ってきたようすがよく分かります。


写真はこちらからお借りしました:お出かけ通信:blog版

また、今津駅も当時は阪神の今津駅を間借りしていて、レールが阪神とつながっていました。

暴走電車は阪神本線に侵入して、久壽川に向かいました。


写真はこちらからお借りしました:お出かけ通信:blog版

(つづく)

阪急電車暴走事件 | コメント( 3 )

ご無沙汰致しております。
ちょっと知りたいことがあって西宮流を見ていましたら、今津っ子さんが阪急の路線殴り込み事件のことを記事にされていたので驚きました。ちょうど僕も書いていたところでしたので。
新聞記事から起されるとはさすがですね。
当方の記事はダラダラ長いのでまだまだ仕上がらず世に出せません。今津っ子さんのお話で勉強させていただこうと都合のいいことを考えています。以後の考察を楽しみにしております。

[ 凛太郎 ] 2011/11/03 5:55:24 [ 削除 ]
子供のころ阪急の今津駅乗り場へ行ったとき、親から阪急電車が車止めを突き破って甲子園の方へ行ったことがあったとは聞いていましたが、半世紀以上たってから、こんなに生々しくその話を聞けるとは思いませんでした。
最近になって「村上ファンドの企み」で、阪急と阪神が資本的に一つのグループになりましたが、昭和24年にこのように部分的にでも一つになったいたのは驚きです。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/11/04 10:34:02 [ 削除 ]
★凛太郎さん。
新聞記事が正しいとは限らないのですが、駅名を北今津と間違えている以外はしっかりした内容でしたので、一つの方法として新聞記事を元に展開してみました。
★西宮芦屋研究所さん。
新聞記事は生々しいです。「東京裁判判決出る」「マッカーサー解任」などの題字を見ると、一瞬今日の出来事のように思え、ドキッとします。
[ 今津っ子 ] 2011/11/05 2:21:35 [ 削除 ]
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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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