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アメリカ博が終了し、本格的な跡地利用がようやく始まった昭和28年3月24日、宝塚にあった宝塚映画撮影所が火事でほぼ全焼したため、急きょ映画館体育館などの設備を利用し撮影を継続することになりました。

アメリカ博終了後の写真が西宮市『市勢要覧』昭和27版に載っています。



火事の翌朝の神戸新聞です。



小林一三指示のもと、1週間で早くもスタジオが完成しています。



2つのスタジオの他、オープンセットも設けられました。

上の神戸新聞によると、まず体育館を利用した第一スタジオが完成し、やや遅れて第二スタジオが映画館を利用して完成
予定とあります。ところが『宝塚映画製作所』(神戸新聞総合出版センター、2001年)では「映画館を改造してセットが組まれ、その後、体育館も改造してステージとなった」と食い違っています。

西宮市『市勢要覧』昭和29版の航空写真に撮影所の一部が写っています。



写真右下に旧映画館の屋根が写っていますので拡大してみます。



「宝塚映画第二」の文字が書かれていますので、体育館が第一、映画館が第二とする神戸新聞の記事が正しいようです。

火事の時にちょうど撮影中で、西宮撮影所でクランクアップした第1号作品『旅はそよ風』は、予定通り5月7日に封切りされました。



昭和31年、撮影所が宝塚に帰ったのを期に、旧航空園跡は整地のうえ、アパート群に変身しました。



【完】

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アメリカ博は、終戦のわずか5年後という当時の社会情勢を考えると、後の大阪万博に匹敵するものだったのかもしれません。



阪急今津線の東側が第1会場、踏切を渡って旧航空園敷地が第2会場になりました。



第2会場の全体がわかる写真が2枚残っています。

1枚は東から西、すなわち第2会場入り口から奥を見ています。



もう1枚は逆に西から撮った航空写真です。



主催の朝日新聞の夕刊には、翌日の行事予定が「あすのアメリカ博」として毎日掲載されました。

これによると、通常は文化映画が上映されていたようです。



閉会式は映画館で行われたそうですので、閉会式を写した『アメリカ博覧会』掲載の写真は、西宮北口会館の内部の分かる貴重な写真ということになります。。



元体育館のハワイ館です。



アメリカ博は5月31日までとなっていましたが、会期末直前、約10日間延長して6月11日までとなりました。



(つづく)

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戦前の市街地にあった映画館は全て空襲により消失しましたが、航空園の航空会館は戦火から免れ、阪急直営の映画館として営業を開始しました。

昭和25年10月10日付新聞広告には「明日開場」と「もと西宮航空園航空講堂」の文字が見えます。



開場時からわずか1ヶ月、演奏会や演芸にも使用するためか、「西宮北口映画劇場」から「西宮北口会館」に改名されました。11月16日付広告に「改称・西宮北口映画劇場」とあります。ちなみに、同じ北口にあって昭和33年から46年まで若大将シリーズ等の東宝映画を上映していた「西宮北口会館」とは直接の関係はありません。



阪急関連の新聞広告は戦前、電車のシルエットの中に広告文を書くという独特のものでした。なぜか終戦後は平凡な四角の枠でしたが、昭和21年2月ころからは再び戦前と同じデザインに戻りました。



吉本と組んで漫才をしたこともありました。



昭和25年、アメリカ博の期間中は一般の興行を休み、博覧会の施設となりました。「8日より当分の間休館」とあります。



博覧会終了の約10日後、6月22日に営業を再開しました。



ところが、25年中には営業を休止したようで、9月19日を最後に新聞広告が見られなくなり、また、全国の映画館一覧『映画年鑑』にも昭和26年版(25年9月1日現在)を最後に掲載されなくなりました。



なお、映画館と同様、航空園の体育館も戦後しばらく阪急直営で営業していたようで、昭和21年5月17日付朝日新聞に広告が掲載されています。



(つづく)

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実は、西宮航空園については、西宮流で既に検証している方がおられます。

西宮の空 航空史と文化と街並と Miya-Pさん

おみかけしたところしばらく中断しておられるようであり、また、内容的に私はむしろ、航空園そのものより敷地や建物がどのような運命をたどったかに重きを置く点に彼我の違いがありますので、敢えてこちらでも掲載させていただきました。

現在、実際に航空園に行ったことのある3名の方の証言を読むことが出来ます。

うち2つはWEB上で閲覧することができます。

少年-大空への憧れ 宙平さん

私の学生時代 松原好角さん

航空園時代の施設の写真はとても少ないのですが、落下傘塔は目玉施設だったようで、開場時に新聞各社がそろって写真を掲載しています。


神戸新聞 昭和18年4月18日


毎日新聞 昭和18年4月18日夕刊

もう1つの証言は、西宮神社の前の権宮司、吉井貞俊さんが『大阪春秋』第27号(昭和56年)に寄稿された「西宮観光論」の中の一節です。その部分だけを転載させていただきます。
思い出の航空園

大東亜戦争の最中、西宮航空園が、阪急の手によって現北口団地の一帯に造られていたが、それを伊勢から見に来た覚えがある。あの飛行機群をそのまま置いておけば、またそれなりに西宮の名所となったことであろうが、戦後一はやくアメリカ博など催す変身ぶりである。

昭和20年8月15日、終戦とともに航空園は役目を終えますが、2ヶ月後の10月、一部施設が活動を再開します。

(つづく)

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西宮航空園は、当時、施設の提供や行事の開催など、このような活動に積極的であった京阪神急行電鉄の手により陸軍航空本部の協力を得て建設されました。但し、実際の運営は大日本飛行協会が行いました。

開場は昭和18年4月18日でした。

前日17日の神戸新聞夕刊に掲載された広告です。開場時の名称は「関西国民航空練成場」と言う長いものでした。



開場当時の様子を伝えた4月18日の神戸新聞です。



4月20日神戸新聞夕刊には、各施設の簡単な説明がついています。



開場から約3ヶ月後の7月中旬、名称を「西宮航空園」と改め、「関西国民航空練成場」を小さく並記するようになりました。

「西宮航空園」の名前が始めて使われた昭和18年7月17日神戸新聞夕刊の広告です。



改名を期に、盛んに子供達を誘う文言が目立つようになります。

少年も読む科学雑誌「科学朝日」の昭和18年12月号の広告です。



(つづく)

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子供のころ親から、北口に落下傘が体験できるところがあったというような話を聞いて、何のことか全く想像もつかなかったのですが、ここにあった落下傘塔のことだったのでしょう。それにしてもよく調べられましたね。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/12/29 20:56:27 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所員さん。
そのような貴重な話を聞けてよかったですね。落下傘塔は一番目立つ施設だったようです。
[ 今津っ子 ] 2011/12/30 4:16:19 [ 削除 ]
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前回、この航空園のあった場所の特定をいとも簡単にしてしまいましたが、それはこの地が戦後、数奇な運命を経て、一部の建物は昭和30年ころまで残っていたからです。

終戦とともに航空園としての機能は停止したものの、映画館は、終戦からわずか2ヶ月の10月11日、市内唯一の映画館として阪急電車直営で営業を開始しました。

やがて、昭和25年、航空園跡地は西宮球場を中心に開催されたアメリカ博の第2会場になりました。

下って、昭和28年、宝塚にあった宝塚映画撮影所が火事で全焼して使用できなくなったため、映画館と体育館が急きょスタジオに転用されました。

昭和31年、撮影所が宝塚に帰ったのち、残った施設も解体され、航空園は完全に消滅しました。

まず、航空園時代の園内配置図です。



昭和22年撮影の写真です。終戦後もまだほとんど手を加えられていないことが分かります。



昭和25年、アメリカ博の会場内配置図です。
結構、航空園時代の施設を転用しているのが分かります。



昭和27年測量の地図です。東の方から団地の造成が始まっています。昭和28年には撮影所がやってきます。




昭和26年の撮影と思われる写真です。東から西を見ています。映画館、体育館の形が分かります。



2年後、昭和28年撮影と思われる写真では、かなり団地造成が進んでいます。



(つづく)

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子どもの頃、この団地群を見て驚いたものです。
[ imamura ] 2011/12/24 22:48:40 [ 削除 ]
★imamuraさん。
確かに、今から考えればここが西宮市の団地第1号でしたね。
[ 今津っ子 ] 2011/12/29 19:53:49 [ 削除 ]
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現在西宮市内には遊園地はありませんが、かつては阪神パーク、甲陽園、香蘆園と言う遊園地があったことは広く知られています。ところが、戦時中の2年あまりの短い期間とは言え、もう一つ、「西宮航空園」と呼ばれる遊園地が存在したことはほとんど知られていません。

オープン前日、昭和18年4月17日付け毎日新聞に掲載された写真です。



その場所を現在の地図でしめします。



本格的な規模を持つ施設であったことが分かります。

終戦で閉鎖になったあと、用地は他に転用されずにしばらく残りました。昭和22年に米軍が写した航空写真で、その頃の様子を見てみます。



敷地内を高倉川(現津門川開削により廃川)がくねくねと流れています。

その後、昭和25年、用地はアメリカ博覧会の第2会場として使用されました。アメリカ博覧会については

西宮芦屋研究所レポート

をご覧ください。

アメリカ博覧会終了後、敷地は団地なったり、一時的に宝塚映画の撮影所になったりしました。そんな
過程を示す昭和27年測量1万分の1地形図です。



(つづく)

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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