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昔の芦屋浜の写真を追加します。まず、昭和初期の撮影で、昭和50年11月30日サンケイ新聞阪神版の連載コラム「昭和のロマン」に掲載されたものです。



もっと昔、明治41年発行「阪神電気鉄道沿線名所案内」に掲載された、夕日に染まる打出浜です。



東から西に向かって撮影されています。深江や魚崎の浜越しに六甲山が見えます。

浜辺に座っているのは少女でしょうか少年でしょうか。漁船では一人の漁師が作業をしています。どんな漁法のためなのか分かりませんが、船尾に特殊な装置が取り付けられています。

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大きな船ですね。島の伝馬船だと船の長さはこの半分ぐらいです。船尾の装置が分かると何をするための船か分かりそうですが。
[ だんご ] 2011/12/16 22:10:16 [ 削除 ]
西から東に向かって?
[ imamura ] 2011/12/16 22:14:45 [ 削除 ]
★だんごさん。
確かに大きい船ですね。単純な一人乗りの漁船ではありませんね。
ちょっと調べてみようと思います。
★imamuraさん。
めんぼくない。ただちに訂正しました。
[ 今津っ子 ] 2011/12/16 22:23:51 [ 削除 ]
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昭和30年代、西宮や芦屋の海岸は一面の砂浜でした。そこでは海水浴はもちろん、漁業も盛んでした。

昭和28年4月18日付け神戸新聞です。

現在では、いかなごと言えば明石が有名ですが、当時は大阪湾周辺のどこでもよくとれたそうです。



芦屋漁業協同組合では十七日朝、今年はじめての「網下ろし」(船下ろしともいう)を行ったところ例年にない大漁で一網約三十貫(時価約一万円〕のイカナゴの漁獲「幸先きがよいぞ」と漁師さんたちはエビス顔、これから毎日八統が下ろされる予定だが、五月からは待望の金川イワシの漁期に入ることだし、また宮川じり沖合で子アユが獲れることもこのほどわかり明石水産試験場から同試験場で養魚の実験に供するからとさっそ同漁協あてに生きた子アユな獲って送ってはしいといってきており、このところ海の幸バンザイというところ(写真は芦屋の網下し)


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ああ、そうでしたね。西宮でもわたしが子どものころは、自転車やリヤカーで魚屋のおっちゃんが売りに来てました。あれは遠くから来たのではなく、多分西宮や芦屋の浜で獲れたものだったと思います。タコなんかも生きていて、わたしたち悪ガキはタコの吸盤に指をつけて吸わせて遊んだものです。魚屋のおっちゃん、怒りましたが、本気ではなかったように思います。
[ imamura ] 2011/12/16 8:13:10 [ 削除 ]
★imamuraさん。
そうですね。今津では中津浜からよく売りに来ました。一番記憶に残っているのは、リヤカーで老婆が売りにきた「ツメガイ」(サルボウ)です。
赤貝の仲間で、安い割にとても美味でした。
[ 今津っ子 ] 2011/12/16 22:01:57 [ 削除 ]
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(続き)

現在「白魚」と書かれる魚にはサケの仲間の「シラウオ」と、ハゼの仲間の「シロウオ」があります。



「シラウオ」は黒い点が多数あり、「シロウオ」は色が薄い飴色ですので、鷲尾氏の言うように新川で採れた白魚が何の稚魚であるか分かりません。

氏は更に、その白魚の採れた様子について、
 今津の東部を流れて、港ヘ入り込む新川には早春の頃になると、山海名産圖會の繪にもある様に、もぢり網といふ六尺四方もある大きな網が竹の竿によって川岸からさし出され、潮にのって港の方から川をのぼってくる白魚を待ちかまへる。やがて網の上を通過したと恩ふ頃を見計つて網の中央のむすぴつけられた綱を引張り網を引き揚げ、躍る自魚を竹の柄のついた水嚢ですくひあげる。夜などは篝火をたいてその燈で採つて居た。
と書かれています。

明治時代の地図でその辺りを見てみます。



氏が言及された『山海名産圖會』には「西宮白魚(シロウオ)」として漁の様子が描かれています。



網の部分を拡大してみます。



『山海名産圖會』では、文字でもその様子を描写していて、春の2月3月ころ、入り江の100m程の区間に5つほど藁小屋を建て、両岸から互い違いに竹竿を2〜3mくらい付き出すが、竹竿の先端には四隅に紐をつけた蚊帳の布で出来た網が結びつけてあった、等とあります。

鷲尾氏によれば、大正時代には川の汚染により白魚は採れなくなったそうで、その末期のようすを次のように書いて文を結んでおられます。
  處が大正の初め頃、上流に毛織紡績が出来て悪水を流す様になつてからはばつたりととれなくなってしまつた。恐らく大正四年が白魚にとつて最後の年であつたと記憶して居る。

 白魚の値段については、その日漁によつて多少の高低はあつたらうけれども.明治廿四五年頃は大漁続きで一合五厘位で、あまり安價であつたので糠などにまぶして鶏の餌にした位であったと聞いている。日清戦争後三銭位に騰貴し、最後の年などは廿五銭位になって居た。

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シラウオとシロウオとが違うんだ。
最近、「白魚」と印刷されたビニール袋に入って、「シロウオ」とも書かれていたので、シラウオと読まないのかと怪訝に思っていましたが、よく判りました。確かに飴色でした。
[ たくじろう ] 2011/05/11 18:52:25 [ 削除 ]
★たくじろうさん。
関西初め、地方によっては「シロウオ」も「シラウオ」と呼ぶこともあるそうなんで、ややこしいですね。

[ 今津っ子 ] 2011/05/12 10:36:22 [ 削除 ]
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43号線が新川を渡る橋は、現在では「新川橋」と言う「そのまんまやないか!!!」と突っ込みたくなるような愛想の無い名前ですが、43号線開通時は「白魚橋」と言いました。



今では鯉なども泳ぐほど回復しましたが、かつてのヘドロまみれで真っ黒なドブ川だった時代を知る者にとっては、とても「新川」と「白魚」は結ぶ付きません。
ところが、明治時代には新川で白魚が採れ、今津名物だったのだそうです。

この橋の名付け親である飯田寿作氏は、そのいきさつについて次のように書かれています。(『酒都遊観記』に掲載)
 新川にかかっている橋は白魚橋と命名した。こめ新川は六石方面より清冽な水が流れてきて、下流では雛祭の時分にはたくさん白魚がとれたものである。他の地方のものとは格段の相違があり脂肪豊かなため、ぬるぬるとして美味この上ない逸品であった。いまは水の汚染のため絶滅した。この白魚は昔の今津っ子には忘れがたくなつかしい特産品であったのである。
氏は明治22年、西宮の東町の生まれですが、今津の名家飯田家の出ですので、自らを含め「今津っ子」と呼んだのでしょう。

新川で白魚で採れた話は、同じ今津の名家で明治36年生まれの鷲尾三郎氏が、昭和8年に大阪の郷土研究誌『上方』第28号に、もう少し詳しく書いておられます。
早春の美魚「白魚」(しらうお)

 以前.早春の頃今津に白魚といふ美しい小魚がとれた。それは本當に美しい魚で、今津の名物として恰度唱尾のいちごの様に有名なものであつた。

 魚の長さはざっと一寸位、腹部に小黒い點が四つ一列に並んでいる他はガラスの器などに入れると、その姿が見えぬ程の透明さであった。これが何の幼魚であつたかはまた解けぬ謎であるが、この頃賣られて居るジャコまかひの白魚とは全然姿も味も異にしたものであつた。

 なかなか美味で殊に吸物、フライなどの味はすぐれて居た。

 かなり古くから世人に膾炙せられて居た事は、山海名産圖會(寛政十一年版)に載録されて居るのもわかる。名産圖會には西宮の白魚として記載して居るけれども.これは誤りで西宮には産せず今津の白魚なのである。

 冬から早春にかけて、酒造蔵から流す米洗ひの白水は港を眞白にしてしまふ。この眞白の水から白魚が湧くのだと人たちは信じて居た。


(続く)

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戦前、今津が映画のロケ地によく使われたことを、小豆嶋屋と言う酒蔵を営んでいた鷲尾家の鷲尾三郎さんの『故圓回顧』をもとに紹介しました。

その際、よく撮影に使われた鷲尾氏の自宅であった小豆嶋屋を、氏が自著『酒家春秋』のために描かれたイラストを掲載しました。



その後、その小豆嶋屋の写真が見つかりました。



掲載されていたのは、阪神電車開通直後の明治41年に発行された『阪神電気鐵道沿線名所案内』(昭和51年、中外書房により復刻)です。

同書には、もう1軒、清水醸造所の写真も掲載されています。



また、『ふるさとの思い出写真集西宮』には、今津千足家の写真が2枚掲載されています。





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小豆嶋屋の写真の1階の階高が高いのに驚きました。
絵だと大きさがわかりませんでしたが、
普通の家の倍ほどあるのでしょうか。
荷物の搬入などもあるのでしょうが、美しく立派な建物ですね。
そしてどれも素晴らしい記録ですね。
[ gri ] 2011/05/10 7:34:28 [ 削除 ]
★griさん。
なるほど。
やっぱり写真が残っていると色々なことが読み取れるもんですね。
特に、この写真には人物が写っているので、大きさがよくわかりますね。
[ 今津っ子 ] 2011/05/10 10:32:13 [ 削除 ]
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最近では、今津が映画やドラマのロケ地になったと言う話を聞くことはまれですが、戦前の今津(今の久寿川駅の南方、大関のある辺り)では盛んに映画が撮影されていました。

その様子を、かつて今津で小豆嶋屋と言う酒蔵を営んでいた鷲尾家の鷲尾三郎さんが城ケ掘自治会報に執筆され、後に他の記事と共に『故圓回顧』と題して自家出版されましたが、いずれも市立図書館には収蔵されておらず、容易には閲覧できませんので、ここに抄録させていただきます。

まず戦前の今津の町並みについて
 道は狭く、南北に通っている本町通りを除いては、肩引車位しか通れない所が多かった。ただ、幸いなことに、村が出来てから、全く大火災に見舞われる事もなく過ぎて来た平穏な町であった。(中略)夜などは倉の間の細い道は真暗で、一杯よばれて上機嫌で帰って来た人が、しばしば足を取られて転んで、その弾みに土産の折詰めを尾として来るような失態を、皆狸の悪戯にしてしまって、「あのヅシ(酒蔵の間の細い小路のこと)には悪い狸がいよるさかい、気つけなあかん」というような話が真面目に語られていた。
と紹介しています。『今津物語』にそのころの写真が載っていますが、この道はまだ少し広めのようです。



続いて、映画の話になります。
 こういう古い町の景観は、映画の時代劇の背景には最適なものであった。大正の末年頃甲陽園に東亜キネマが出来て、西宮の方へは時々ロケーションに出掛けていたようだったが、今津へは京都の松竹が昭和四年三月にロケーションに来たのが最初であった。
そして、その最初の映画について
 その作品は「おもかげ」という題で、酒屋の娘と番頭との悲恋物語であった。番頭に扮したのは林長二郎、今の長谷川一夫であるが、当時は二十才前後のいきな青年であった。又酒屋の娘はもう亡くなったが若水絹子という奇麗な女優であった。そしてその酒屋には、間口が広くて格子作りの私の家が使われ、海岸で逢引するシーンは、大関酒造の先祖が建て、今、市の文化財になっている港の灯台の所で撮影した。
鷲尾三郎さん自身が、その鷲尾家、つまり小豆嶋屋をイラストに描いています。



続いて、その後の作品に触れて
 前進座の河原崎長十郎や中村翫右衛門も、ロケに来たことがあった。この時は酒蔵の屋根の上を走り廻るシーンであった。山田五十鈴も来た。
そして、恐らく戦前最後のロケと思われる作品「花は偽らず」で話を結んでいます。
 支那事変が長く続いて、そろそろ物資が不足し始めていた昭和十五年に、当時松竹の看板女優でこの頃国鉄のポスターで話題になった高峰三枝子がロケにやって来た。その時彼女は十六ー七の花のような可憐な少女であった。この時も私の家で主として撮影した。「花は偽らず」という映画で、共演者は佐分利信であった。
私は未見ですが、この「花は偽らず」は有名作品だったようで、何度かビデオ化されています。



戦前の今津の町並みの写真はほとんど残っていませんので、これらの作品を発掘すれば、当時の様子を偲ぶことができるのかも知れません。


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とても興味深いお話しをありがとうございます。
きっとお話しの内容より風景とか建物を見てしまいそうです^^;
[ ショコママ ] 2011/05/08 10:05:06 [ 削除 ]
★ショコママさん。
たぶん私も背景ばかり見て、結局なんの話だったかわからなかった、となるでしょうね。f^_^;
[ 今津っ子 ] 2011/05/08 18:28:39 [ 削除 ]
今日は初めてお会いできて良かったです!
是非、番組で楽しいお話を!
[ フラモニ ] 2011/05/08 20:18:53 [ 削除 ]
★フラモニさん。
本日はご苦労さまでした。
それにしても、検定は本当に難しかったですね。
[ 今津っ子 ] 2011/05/08 20:49:51 [ 削除 ]
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久寿川を含む今津地区は昭和20年8月5日6日の空襲でほぼ焼け野原となりましたが、それより1年前の昭和19年、久寿川駅のすぐ南で死者13名を出す惨劇がありました。

それは米軍機の空襲ではなく、日本海軍機の墜落によるものでした。
 

 
当時、駅の南には商店が並び、錦通商店街と呼ばれていました。飛行機はその一角に墜落しました。
 

 
『今津物語』にその様子が詳しく書かれています。少し長いのですが、引用します。
 
*******************
 
 昭和十九年八月二十三日の午後四時ごろ、三機の海軍機が北から南方に低く飛んできた。ところで二機は通りすぎたが、あとの一機の調子が悪く、低空を飛んでいたが、久寿川近くの阪神竜車の高圧線に引っかかって、もの凄い音を立て、墜落した。民家に突っこんだ途端、パッと火の手があがった。ガソリンタンクに火がついて黒煙がもうもうとあがる、油が飛び散る、それに火が走る。落ちた家の入り口を火がふさぎ大きく燃え上がったので、その家の人々は裏手へ逃げようとしたが、そこには出口がなかった。あわれ一家七人火の海の中で焼け死んだ。助けに走った岡田さんという人も、火に巻き込まれて死んだ。近くにいた桶屋の子も、ほかの子供たちも燃えさかる炎の中で、火だるまになって死んだ。あッという間のできごとであった。まわりを取り巻いた人は、軍の機密もあることとて近寄れなかったが、警防団の人々がいろいろと走りまわった。以下は、当時警防団にいて今は消防団で活躍している人たちの話である。
 
 操縦士が足をふんばって操縦カンを握ったまま真っ黒になって死んでいました。まるで、猿が黒こげになったようなヒドイ姿で気の毒でした。それから、もう一人死んでいました。あとから憲兵や軍の人が来て、もう一人いるはずだというのです。捜すと下側のところに焼け死んでいました。全部で十三人の人が亡くなったのです。火事を消すのもたいへんでした。なにしろ、ガソリンに引火したのですからそりやぁえらいことでした。その火が下水を流れてまるで火の川になりました。マンホールが三尺くらい上にあがりましたよ。機体には水をかけられないので、ムシロヤら砂をリレーで運んでかけ、やっと火を消しとめました。兵隊の方は軍隊の方で死体を持って帰りましたが、亡くなった家は合同葬することもできない。みんなそっと、ひそかにお葬式をしたのです。一家七人全焼死というのにほんとうに気の毒なことをしました
 
 そしてこの死体は常源寺に運ばれ、瀕死のけが人は明和病院に運ばれたが、もう手のほどこしようもなかった。やがて町の人たちによってこの地にひそやかに地蔵尊がまつられた。
 
*******************
 
『今津物語』には詳しい場所や一家のお名前が書かれていませんが、当時を知る方々にお聞きしたところ、全員亡くなられたは石井さん一家で、その場所は名神高架下の現在は駐輪場になっているところであることが分かりました。
 

 

地蔵尊は元々その現場辺りにありましたが、名神工事のためすぐ横の久寿川公園に移され、延命地蔵として地元の人たちの手で今も大切に祀られています。
 

 
 

今津の風景(戦前) | コメント( 3 )

『今津物語』入手して読みました。
田中やえさんの文章が哀切を極めますね。
[ imamura ] 2011/03/07 13:10:05 [ 削除 ]
『今津物語』のこと、わたしのブログに書きました。
http://akaru.mo-blog.jp/akarublog/
[ imamura ] 2011/03/07 18:25:19 [ 削除 ]
★akaruさん。
ブログ拝見しました。
『今津物語』を取り上げていただき感謝します。
これからも、『今津物語』であまり触れられていないことや、刊行後に分かったことを中心に書いていきたいと思っています。

[ 今津っ子 ] 2011/03/07 20:01:16 [ 削除 ]
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戦後は今津駅前が繁華街となり、最大6軒もの映画館がありましたが、戦前の繁華街は久寿川駅周辺で、今津劇場と言う演芸場がありました。
 
場所は久寿川駅のすぐ北です。
昭和10年の地形図にその建物が描かれています。
 

 
 劇場の西側が入口で、道との間が広場になっていました。
 

 
この一帯は空襲で焼けたため、戦後の復興時に道が整備されて跡形もありません。
 

 
広場があった辺りの現状です。広場の奥が劇場でした。
 
『今津物語』に当時の思い出が書かれています。
 
「駅の北に今津劇場があって、ドサまわりの芝居などをしていた。そんなとき、旗を持ったチンドン屋がまわってきて、口上などを言っていたのが忘れられない」
 

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戦前の久寿川が繁華街だったなんて・・・
夫の両親が生きていたら、その頃の話が聞けたのに・・
聞きたかったです!!
[ ショコママ ] 2011/02/16 21:14:24 [ 削除 ]
久寿川の今津劇場は戦前のことで、全く知りませんでしたが、戦後、西宮の演芸場で記憶があるのは、中央商店街の中央劇場と与古道町に短期間あったSY歌舞伎座ぐらいです。娯楽の世界も激しく変化しますね。


[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/02/16 22:44:09 [ 削除 ]
★ショコママさん。
私もご両親のお話を聞きたかったです。
駅の南には商店街があったそうで、現在調査中です。
また報告します。
★西宮芦屋研究所員さん。
中央劇場はずっと演芸場のままでしたが、SI歌舞伎座の方は後に映画館になりましたね。
母の知人が演芸場時代のSI歌舞伎座に行ったことがあるそうです。
[ 今津っ子 ] 2011/02/17 15:02:32 [ 削除 ]
知りませんでした、今津より久寿川の方が栄えていたとは。
西宮と一緒ですねえ。東口(廃駅になりました)の方が西宮よりよほど賑やかだったことと。
[ imamura ] 2011/02/17 15:38:31 [ 削除 ]
★akaruさま。
そうですね。
商店街もにぎやかだっだし、駅の南もお店がたくさんありましたね。
現在朝凪町まで行っているバスも、元々は西宮本町が始発でしたね。
[ 今津っ子 ] 2011/02/18 11:50:37 [ 削除 ]
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甲子園球場は大正13年に旧今津村と旧鳴尾村の村境に接して鳴尾村側に建設されました。

下の写真は、甲子園球場の内野グラウンド辺りから北を向いて撮影された大正10年頃の写真です。



球場建設の3年前ですから、まだ球場はありません。一面の砂地で僅かに水が流れているのが見えます。また、遠方に1両編成の阪神電車が鉄橋を渡っています。

当時の地形図です。球場が建設された場所をピンクに着色してみました。



現在の国道2号線の少し北で武庫川から分かれて流れて来た枝川が、西に申川(さるがわ)を分岐する広い河川敷に球場が建設されたのが分かります。

ちなみに、申川は元文5年(1740)、庚申(かのえさる)の年の洪水で枝川が氾濫して出来たので申川となったと言う話がまことしやかに伝えられていますが、それ以前に書かれた古文書に既に申川の名前が見えますので、この説の信ぴょう性には疑いが残ります。

この枝川は写真のように歩いて渡れるほど通常は水量は僅かでしたが、一旦洪水になると本流の武庫川と共に堤が決壊して大洪水となり、度々周辺に大きな被害を与えてきました。

そこで、流れを武庫川に一本化してそちらの堤防を補強し、その費用を捻出するために枝川と申川を廃川にしてその敷地を民間に売却することが決まりました。なにぶん、とてつもなく細長い変則的な土地ですので、阪神電車が一括して購入し、開発することになりました。

この開発の一環として、大正13年ここにが甲子園球場が建設されました。

球場誕生直後と思われる航空写真です。大正15年に正式開業した甲子園駅はまだ無く、同じ年に開通した甲子園線がまだ仮設線路のままですので、それ以前の写真と思われます。



昭和10年の地形図です。まだ、川の名残が見られます。なお、当時の外野席は土を盛っただけの簡単なものでした。



現在では、そこが川だった名残は東西の堤にあたる土手だけになりました。



43号線高架下から駅の方を見た写真です。左の土手が西堤の名残です。



東堤名残の土手です。こちらは今も松林が残っています。



なお、よく甲子園球場は水はけが良いと言われますが、それはかつては一面の砂地であったことによるものなのかも知れません。(一文削除)

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記憶が曖昧ですが、子供の頃に東の堤辺りにあったと思われる喫茶店?「パーラー」?に連れて行ってもらったような記憶があり、西の堤には食道のような飲み屋さんのようなお店がありましたね。甲子園球場の水はけが良いのは確かに元々川であったことの影響があるとは思いますが、私が子供の頃に球場の地下には排水用の土管が何本も入っていて排水が良いとも聞いたことがありますので、もし機会があれば調べて欲しいと思います。今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
[ ピース ] 2010/12/31 18:35:56 [ 削除 ]
★ピースさん。
西の堤にはずらりと食堂がならんでいましたね。道の西には北から、神戸屋パン、スポーツマン食堂、日吉食堂、甲子園喫茶、やっこ食堂の5軒、道の東は駅寄りの端にまさや食堂です。
スポーツマン食堂は西宮球場前にあった同名の食堂の支店で、火事で建物が燃えた際、阪神が建替えを認めなかったので、一番早く姿を消しました。
水はけの件は、水の素人が想像力をふくらませて書いたもので、反省しています。この一文は削除させていただきます。専門的な調査は手に負えませんのでご勘弁ください。まことに申し訳ございません。
[ 今津っ子 ] 2010/12/31 19:48:26 [ 削除 ]
こちらこそ申し訳ございません。阪神園芸のホームページにも、「よく甲子園球場は水はけが良いと言われますが、それはかつては一面の砂地であったことによるものなのかも知れません。」と似たようなことが書いてあったと思います。私のかんちがいもありますので、ご了承下さい。私も水の素人です。
[ ピース ] 2010/12/31 19:56:28 [ 削除 ]
★ピースさん。
気を使わせてしまって申し訳ありません。今回のことはいい教訓になりました。間違った情報やあやふやなことを書かないように更に気をつけようと思います。ありがとうございました。
[ 今津っ子 ] 2010/12/31 20:05:23 [ 削除 ]
今津っ子さん 今年の最後を飾る素晴らしい甲子園物語ですね。
森繁久弥さんが、大正時代にこの近辺に住んでいたころのことを1961年に西宮市の市勢要覧に「西宮今昔」として寄稿しています。文章と一緒にこのあたりのスケッチもつけていますが、今日の今津っ子さんのブログの最初の写真と地図を見て森繁さんの記憶がすごく正しいことがよくわかりました。


[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/12/31 21:47:38 [ 削除 ]
今津っ子さん、ありがとうございました。新参者の私でも分かりやすく解説して頂いて、この数か月ですっかり、西宮通になりました。同い年のよしみでこれからも宜しくお願いいたします。
[ 美保 ] 2010/12/31 22:40:39 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所員さん。
そうですね。あのイラストはよく書けていますね。森繁さんはたいしたもんです。私たちも脳の活性化に気をつけてがんばりましょう。
★美保さん。
いつもありがとうございます。どんどん西宮通になって、西宮を第2の故郷にしてください。

[ 今津っ子 ] 2011/01/01 16:17:00 [ 削除 ]
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 正確な撮影年は不明ですが、よく写真集などに掲載される明治時代の今津灯台です。

今と違い、灯台は砂浜に囲まれています。


『目で見る西宮の100年』より

灯台の向こうは今では工場等で埋め尽くされていますが、かろうじて六甲の山々が見えます。



当時の地形図を見ると、この辺りの海岸線は全て広い砂浜であったことが分かります。

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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