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 今津灯台は江戸時代以来、少しずつ補修や改良を加えながら今も変わらず今津港を守り続けていますが、その周りの風景は大きく変わってきました。

『グラフにしのみや1975』に掲載された昭和10年の今津灯台です。



灯台自体はあまり変わっていませんが、入港してくる小舟や、港の入口がとても狭くて砂浜のままであること等、今とはずいぶん違います。



ただ、当時の地形図を見ると、港の東側にはびっしり工場の建物が建っていることが分かります。

今津の風景(戦前) | コメント( 3 )

今津灯台今日も夕陽が沈む頃
今津灯台から見る景色
一番好きです。
絵になりますよね〜
[ kokoro ] 2010/12/20 21:48:38 [ 削除 ]
今津っ子さんの「かとちゃん」色々パターンがあるのですね〜。今日の焼き芋ゲット!かわいいね。
[ 美保 ] 2010/12/20 22:39:10 [ 削除 ]
★kokoroさん。
そうですね。
特に夕方は灯台のシルエットが浮かび上がって美しいですね。
今回の位置から見るのもいいですが、日が暮れてしまうと危ないので、次回紹介するアングルの方がお奨めです。
★美保さん。
まだまだ芸をしますよ。
次はでんでんむしを観察します。
よく意味はわかりませんが (^_^)
[ 今津っ子 ] 2010/12/21 1:05:14 [ 削除 ]
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 今ではすっかりプレジャーボートの基地となった今津港ですが、少し前までは吉原製油などの工場の貨物船が出入し、さらに古くは漁船が出入するとともに、今津郷の酒や近隣の特産物を運ぶ船で賑わっていました。

明治末ころの今津港の写真です。
奥行きは今と同じですが、まだ拡張されていませんので、幅は狭いままです。


『目で見る西宮の100年』より

先の方に今津灯台が見えますので、これを手がかりにすれば現在と比較することができます。



明治18年の地形図を見ると、灯台付近は奥よりも更に狭くなっていたのが分かります。

今津の風景(戦前) | コメント( 4 )

上の写真、風情がありますね。タイムスリップして行ってみたいです。
[ gri ] 2010/12/19 21:28:46 [ 削除 ]
★griさん。
はい。
灯台が無ければ、とても今津の風景とは思えませんね。
[ 今津っ子 ] 2010/12/19 23:24:39 [ 削除 ]
昔の写真を見ると今津灯台の重要さが、よくわかりますね〜。大切に伝えたい物ですね。今津っ子さんチロルチョコですが、私はコープで買いました〜。7イレブンにもあると思いますよ。
[ 美保 ] 2010/12/20 12:05:31 [ 削除 ]
★美保さん。
今津にはいわゆる歴史遺産が少ないので、今後も守り続けたいですね。
チロルは明日ゲットします♪
(美保さんのブログ参照)
[ 今津っ子 ] 2010/12/20 19:36:08 [ 削除 ]
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幕末、日本沿岸に頻繁に近づく外国船に恐怖を覚えた江戸幕府は、大阪湾防衛のために、西宮市内では西宮浜と今津浜にお台場を設け、砲台を建造しました。
西宮砲台は今も残っていますが、西宮砲台よりも更に立派だったと言われる今津砲台の方は大正末に解体されて跡形も無いため、今ではかつて今津に砲台があったことを知る人はほとんどいません。

昭和10年の地形図に、砲台跡が描かれています。





残念ながら今津砲台の写真は残っていませんが、まだ砲台があったころを知る鷲尾三郎さんの『故園回顧』にその様子が書かれています。
 「砲台は、今津港の東の突端に、土塁で丸く囲まれて、その中に高さ約12米、直径約17米もある円形石造の建物で、周囲に四角な窓が12箇明けられていた。今津の人々は、見たこともない新式の建物に目を見張るばかりであった。内部には2門の大砲が据えられて、その四角な窓から、どの方面へでも撃てるようになっているということで、その威力には驚いた。」
砲台のスケッチも添えられています。



更に、描写は砲台が取り壊される様子に及びます。
 「大正4年(1915)10月に、当時所管していた海軍省から、お台場は民間に払下げられた。当時の落札値が僅か700円だったそうである。お台場は石を取るために崩された。石はひどい土煙をあげてあたりを震わせる程大きな音をたてて次々と崩れ落とされた。当時小学生であった私は、毎日浜へ友達と遊びに行って、石の落ちるのを眺めていた。」
ただ幸いなことに、解体された砲台の石の内の1個が残され、現在は砲台のあった場所のすぐ横に保存されています。





以前、この記念石は福応神社にあり、『今津物語』等にもそう書かれていますが、元の砲台の近くの方がふさわしいと言うことで現在の位置に移設されました。移設されたことを知らず、今でも福応神社に訪ねてくる方が多いそうです。

今津の風景(戦前) | コメント( 2 )

この砲台の敷地の横は、戦後、野球のグランドになっていたと思います。実家が吉原製油の代理店をしていたので、ここでの野球大会に参加させてもらったことがありました。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/10/18 10:17:27 [ 削除 ]
野球場のことは知りませんでした。初音屋さんにも尋ねましたが記憶がないとのことでした。面目ございません。
ただ、砲台跡側ではなく、吉原製油の真砂中学校側に広っぱがあったことだけは覚えています。
[ 今津っ子 ] 2010/10/18 21:50:13 [ 削除 ]
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[ 凛太郎の自転車操業 ]  西宮砲台29 我々が誇るに値する史跡として  2012/05/25 5:36:36
 以前、和歌山へ行った時に、こんな石碑を見ました。    「勝海舟寓居地」。和歌山市駅からほん


江戸時代から戦前まで、今津の中心は久寿川駅の南の酒蔵地域でしたので、西宮と今津を繋ぐメインルートは今の酒蔵通りでした。
その南、今の臨港線にあたる道も江戸時代からありましたが、人の通行と言うより、主に西宮の宮水を今津の酒蔵に運ぶためのものでした。

宮水は樽に入れて荷車で運ぶわけですから、どうしても振動で樽から水がこぼれて道は水浸しになり、やがてぬかるんで荷車の通行に支障をきたしますので、車輪の通る位置に2列の板石が貼られ、このため、板石道と呼ばれていました。

この板石道が六湛寺川、東川、津門川を渡るところにかかるのが長五郎橋です。昔から西長五郎橋と東長五郎橋に分かれていて、橋の上も板石が貼られていたことから、板石橋とも呼ばれていました。

わずかに荷車だけが通る町外れの橋も、今では絶え間なく車の通る立派な橋に変わり、むかしの写真に見るのどかな光景とは別世界のようになってしまいました。

今津の風景(戦前) | コメント( 0 )

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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