2011/12/11 21:52:40
今回は宝塚と西宮北口の間で折り返し運転をする電車が発着する7番線8番線付近です。と言っても、当時は、この7番線8番線は行き止まりではなく、神戸方面の線路につながっていました。
まず、7番線8番線の南端、西改札口を入ったところから撮った写真です。後に今津線の電車の編成が長くなり、ホームを延長するスペースを確保するために8番線は廃止されました。さらに、残った7番線も更にホームを延長する必要が生じた結果、神戸方面への連絡線が廃止され、行き止まりになりました。
写真1昭和29年撮影
むーさんの鉄道風景
この7番線8番線からは西宮北口折り返し宝塚行き電車以外に、競馬開催日には仁川行き臨時電車も出ていました。また、梅田発仁川行きの臨時急行が、一旦駅から神戸方面に行き過ぎ、そこで折り返して7番線8番線に停車し、それから仁川に向かっていたような気がします。
写真2昭和33年撮影
はーさんの鉄道・旅・よしなし草
8番線ホームの先端から、6番線を出発して宝塚に向かって電車を見送っています。
写真3昭和29年撮影
むーさんの鉄道風景
最後に、神戸行きホームから大阪方面を写した写真です。ダイアモンドを通過して梅田に向かう特急と、まもなく到着しようとする神戸行き普通電車が写っています。ホームの先端に踏切が見えます。
写真4昭和33年撮影
はーさんの鉄道・旅・よしなし草
(おわり)
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遅くなりましたが、ダイヤモンドクロスのお話、興味深く拝読させていただきました。ははぁこうなっていたのか、と当時を知らない僕には感動的です。やはり今ではちょっと考えにくい構造ですね。いつも分かりやすく美しい図解をありがとうございます。
ことに、カーブしている8番ホームというのはすごい。多少なら他にも存在するでしょうが、ここまでの曲線は…無いでしょうね。ホームとの隙間が絶対に問題になる。
神戸新聞が「幻」と煽った8号線(神戸新聞は9号線と間違えていましたが^^;)の提示解説、本当にありがとうございました。
[ 凛太郎 ] 2011/12/18 7:56:20
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★凛太郎さん。
定期列車は6号線7号線を使いましたので、残念ながら私は8号線から電車に乗ったことはありません。
平面交差など北口駅の構造に関しては、おもしろい話がまだまだあるのですが、鉄分が多すぎてブログの主旨から乖離しますので、今回はこれくらいにさせていただきます。
[ 今津っ子 ] 2011/12/19 14:30:15
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2011/11/30 20:16:13
今回は5番線6番線付近です。今津線のうち宝塚と今津の間を直通運転する電車のホームです。
写真1昭和29年撮影
むーさんの鉄道風景
今津から来た宝塚行き電車が6番線に止まっています。このころは小型車3両編成で写真の500型の真ん中に300型をはさんでいました。
写真奥の踏切は今も同じ位置にあります。現在では踏切ギリギリまでホームがありますが、このころはホームが短く、先端から踏切まで随分距離があるのが分かります。
写真2昭和51年撮影
むーさんの鉄道風景
時代は下って、今津線も大型4両が基本となりました。写真の電車はこれからダイアモンドを渡って今津に向かいます。ダイアモンドの手前には脱線ポイントと言う仕掛けがあって、仮に赤信号を無視して発車しても、すぐに脱線して停車するようになっていました。写真1の右下に写っています。
写真3昭和51年撮影
むーさんの鉄道風景
左の610型は大型車のように見えますが、実は長さが短く、大型車と輸送力をあわせるため5両編成で運転されていました。この610型と先程見た500型はこのあと能勢電鉄に移籍し、第2の人生をおくりました。
写真4昭和51年撮影
むーさんの鉄道風景
宝塚行きホームと大阪行きホームの間にあった広場です。時計台は待ち合わせポイントの一つでした。
(つづく)
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ここをお借りして書きます。一昨日お話した坂田二三夫さんは「道標」ではなく「板碑」の研究家だと、昨日宮崎修二朗翁に教えてもらいました。お詫びして訂正します。しかし宮崎翁は何でも詳しく知っておられる人です。
[ imamura ] 2011/12/04 7:41:06
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★imamuraさん。
情報ありがとうございます。imamuraさんの地元民ならではの情報網には敬服します。またなにかとご教示ください。
[ 今津っ子 ] 2011/12/05 19:04:30
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2011/11/29 9:13:59
かつて、阪急西宮北口駅では、神戸線と今津線の線路が平面交叉しており、ダイアモンドクロスと呼ばれていました。
そのころの様子を、いつもの「むーさん」とお友達の「はーさん」の写真をお借りして紹介します。
まず、昭和30年ころの駅構内の地図です。
この頃は列車の編成も短く、このためホームの長さも神戸線で約80m、今津線では約50m、と現在の半分以下でした。
まず、ダイアモンドクロス付近を見てみます。
写真1昭和31年撮影
むーさんの鉄道風景
今津行き電車が、ダイアモンドクロスを渡り終えた時に、振り返って撮影しています。社員専用の細い通路を人が渡っています。
写真2昭和33年撮影
はーさんの鉄道・旅・よしなし草
神戸行きホームから、梅田行特急を撮影しています。当時の神戸線は4両編成でした。
写真3昭和33年撮影
はーさんの鉄道・旅・よしなし草
さきほどと同じ場所から同じアングルで撮影しています。今度は今津線の電車がダイアモンドを渡っています。当時は長さ15mくらいの小型車の3両編成でした。神戸線列車は今津線の線路2本を渡るだけでしたが、今津線列車は本線の4本の線路を通過しましたので、とてもせわしい音がしました。
写真4昭和31年撮影
むーさんの鉄道風景
大阪行きホームから神戸行き普通を撮っています。右奥に西宮球場が見えます。
(つづく)
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2010/12/27 20:38:49
引続き、昭和29年夏の今津線沿線風景です。
今津線が国鉄線(現JR線)を高架で越えるところです。もちろん、走っている電車が古いことは言うまでもありませんが、もう1点、今は無いものが写っています。
それは足下に写っている踏切りです。この写真撮影直後にこの踏切りは廃止され、今はここで線路を渡ることはできません。
そのいきさつを、当時と今の地図を比べながら見てみます。
現在の津門川は当時は無く、西宮北口辺りから今津線とほぼ平行にくねくねと流れていた幅2mくらいの川が元の津門川でした。そして、その津門川に沿った道が西宮北口と今津を繋ぐ唯一の道で、更に線路の南で別れて西宮駅前を経て西宮に至る幹線でもありました。また、逆に線路の少し北の辻を東に行くと、阪急電車が開通するまでは伊丹や塚口方面に通じる幹線でした。
線路を渡る部分はこれらの道がちょうど集中していて、兵庫県県道に指定されていた重要路でしたので、当然の事として踏切りが設けられていました。
ところが、阪急電車の開通以来徐々にこの道の重要度が下がり、さらに戦後、この踏切りのすぐ西に新しい津門川の開削が計画され、昭和29年の川の完成と同時に線路をくぐる新しい道が作られたのを機に、踏切りは廃止されました。
上の写真は、この踏切りの現役時代を写した現在知られる唯一の写真です。
踏切りが廃止された現在では同じ場所から撮影することはできませんので、少し西の津門川辺りから撮影してみました。
左の門が踏切りへの上り口です。今も残る短い坂を上ったところが昭和29年の写真の撮影地点です。
ちなみに、電車の前の看板に「急」の文字が見えますが、当時は今の快速のことを急行と呼んでいました。当時の国鉄では一般に急行と言えば有料の急行を指しましたが、京阪神間を走るこの急行は急行料金不要でしたので紛らわしいと言うことで快速と呼ぶようになりました。
昭和29年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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2010/12/27 0:07:13
今回も昭和29年夏の今津線沿線風景です。場所は前回の少し南、国鉄線(現在のJR線)の手前です。
線路は国鉄とその南の国道2号線を越えるために、今津線開通時から高架になっています。当時の高架は、橋脚が細かいピッチで並んでいるのが特徴です。
橋脚の間から、アサヒビールの工場が見えます。
当時の地図にもこの部分が高架として描かれています。
昭和29年版『市勢要覧』にこの付近の航空写真が載っています。
この写真が撮られてまむなく、高架手前の空き地に工場が建てられましたが、その工場も本年(2010年)に解体され、現在ではマンションになっています。
2軒のマンションの間が公園になっていて、そのすき間から高架が見えます。
昭和29年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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昭和50年頃だったでしょうか、この近く(北側)に「ニチイ」がありその4,5階くらいに屋内プールがあったような記憶があります。確か「ピープル」です。やっぱり子供の頃を思い出させてくれますね。懐かしいです。
[ ピース ] 2010/12/27 8:32:47
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★ピースさん。
ニチイがありましたね。一時はずいぶん賑わっていました。
場所は、前回の地図で「製罐工場」とあるところで、今は駐車場になっています。
[ 今津っ子 ] 2010/12/27 8:48:19
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2010/12/26 5:44:40
昭和29年夏の今津線沿線風景です。
場所は西宮北口と阪神国道の間です。「なんたって田圃です。緑の稲の波の向こうを今津行きの電車が行きます。遠景の工場はアサヒビールです。」と撮影者のむ〜さんは書き添えています。
む〜さんは、西宮北口から今津に向って地図中の青い道を歩いて帰る途中です。当時の地形図を見ると、この部分は田圃になっています。どうも、手前の稲を強調気味に撮ったようで、大きな田圃に見えますが、実際にはそう広い田圃ではありません。
田圃付近のむ〜さんが歩いた道はは震災後の区画整理で消滅しました。
昭和29年版『市勢要覧』にこの付近の航空写真が載っています。線路の向こうにあった池や手前の高松町団地も写っています。
今ではびっしり建物が並び、かつては田圃だったことがウソのようです。
ちなみに、この田圃は旧津門村の田圃です。
昭和29年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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2010/12/17 3:37:34
前回と同様、阪神今津駅のすぐ西にあった踏切りから西に向って撮影された写真ですが、今回は前回より少し東、阪神今津駅の改札口を入ったところから撮影されています。
踏切際、南西にあった「河久すし半」が写っています。
当時、この付近で唯一の総合食堂で、今で言うファミレスの走りでした。
現在では、その後はパチンコ屋になっています。
ちなみに、写真の一番後ろの車両は5313号車と言い、「大阪梅田/高速神戸」等の看板を前後に付けて走る最後の電車でしたが、先日、老朽化のために解体されました。
昭和51年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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2010/12/16 3:29:43
阪神今津駅のすぐ西にあった踏切りから西に向って撮影された写真です。昭和51年です。
写真右端に写っている建物は、踏切りの北西際にあった「今津焼」です。当時は線路の北には道は無く、今のように線路沿いに歩くことは出来ませんでした。
一方、線路の南の道沿いには今津東映があり、夜にはバーや居酒屋が開店すると共に線路沿いには屋台が出店し、大変にぎわっていました。
今では、南の道沿いには長来軒があるのみで、後はマンションに変わり、かつてのにぎわいはウソのようです。
昭和51年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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おじゃまいたします。
わたしは子どものころ、『今津模型』でよくプラモデルを買ってもらっていました。
サンテレビでもCMが流れていました。
立地は、のせやビルの西側あたりだったでしょうか?
[ 373 ] 2010/12/16 7:29:23
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今津っ子さん のせやビルの壁の「岡辺金次郎」の名前が懐かしいです。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/12/16 8:50:28
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★373さん。
私は行ったことがないのですが、のせやビルの西に今津模型がありました。
今は立体駐車場のタワーが建っています。
★西宮芦屋研究所員さん。
当時の市会議員さんですね。
後援会の看板としては一等地ですね。
[ 今津っ子 ] 2010/12/16 9:28:12
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2010/12/12 21:15:49
今津駅を出た大阪行き普通電車が久寿川駅に向っています。昭和29年の風景です。
左が線路の北側の曙町、右が水波町です。
電車に乗って、車内から前を撮った写真で、運転手の帽子が写っています。
前から向ってくるのは、神戸元町行き急行電車です。何故そう分かるのかと言うと、当時は前に昼間四角い看板を付けているのは急行だけで、しかもその急行は全部元町行きだったからです。
今は高架が邪魔して北と南を見渡すことができませんので、別々に撮影しました。
昭和51年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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2010/12/10 21:53:07
前回と同じ旧国道踏切りから写した写真ですが、今回はその22年後、昭和51年です。
もう家が建て込んでいて、甲山方向は見通せません。
先頭の電車は7701型と言い、扉が片側にだけ開くタイプで、走り始めるときに「ウイーン」と大きな音がする車両でしたが、今はもう居ません。
ほぼ同じ場所から、同じアングルで撮影してみました。
高架の橋脚と、かさ上げされた津門川の堤防で津門西口町さえ見通せません。
昭和51年の写真は関東在住のむ〜さんからお借りしました。
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男の子は電車好きですね〜。先日も阪急のホームで小学生の男の子が「9000系だ〜」って大きな声を出しました。一瞬何の事か解らなかったのですが、遠くから向かって来る電車の事でした。
[ 美保 ] 2010/12/10 22:23:16
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☆美保さん。
阪急9000系は阪急の最新型電車ですね。
まだ数が少ないので、たまにしか出会えませんね。
と言うことで、まだまだ子供の今津っ子でした f^_^;
[ 今津っ子 ] 2010/12/11 8:34:27
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昔今津に住んでおりました。唐突な質問で申し訳ないのですが昭和45年くらいまで枝川か久寿川沿いに百瀬とかいう洋館の病院は無かったでしょうか?中学ぐらいの頃家に帰りたく無いときなどその建物を見るのが好きでした。当時すでに廃墟みたいでした。忍び込んだ記憶も有るのですが、誰に聞いてもそんな物は知らないとのことで今となっては私の妄想だったのかとも思っております。
[ 懐かしい記事に大興奮です。 ] 2010/12/11 19:09:23
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妄想ではありません。ご心配なく。百瀬診療所は、私もよく前を通りました。忍び込んだとはすごいですね。今から思えば洒落た建物でしたが、子供心には、からまった蔦のせいか、ちょっと恐ろしかったような記憶があります。
百瀬については、野間宏との関連で既にこのブログで扱っています。右上の「ポストカテゴリー」から「人物」をクリックしていただくと読むことができます。
[ 今津っ子 ] 2010/12/11 20:13:04
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ありがとうございました!過去の記事も拝見致しました。今津っ子さんの博識さと詳しい考証に感動いたしました。私が忍び込んだのは元本宅でのち診療所だった建物だったのですね。新川沿いでしたか。子供の頃の記憶って肝心な部分はぼやけているのですが建物の外観の風格や内部の不気味さはよく覚えております。
昭和40年代はまだ久寿川〜今津あたりにも空き屋が多く残っており、それらはとても魅力的でした。
今津中学円形校舎から見下ろせる大きな空きやにも忍び込んだり、谷向病院のおばけの出そうな中庭も好きでした。重ねてお礼を申し上げます。タイムトリップ出来る
記事ばかりですね。
[ miko-chang ] 2010/12/11 22:55:02
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☆miko-changさん。
そうですね。よくあちこち探検したりしましたね。子供だから許されたんでしょうね。
タイムトリップ、楽しんで下さい。私も楽しみながらブログを書いています。
[ 今津っ子 ] 2010/12/12 0:22:07
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