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西宮流ブロガーのみなさんはあまり関心をお持ちでないかもしれませんが、今話題のAKB48に代表される女子アイドルグループの中に、今津出身者が2人います。
将来、このブログで「今津に住んだ有名人」として掲載できるくらい活躍してほしい、と言う思いをこめて紹介させていただきます。

1人は2010年にデビューしたSUPER☆GiRLS(スーパーガールズ)の後藤彩(ごとうあや)さんです。
SUPER☆GiRLSは、イトーヨーカドーやサンガリアのテレビCMで見ることができます。

後藤彩プロフィール
後藤彩(SUPER☆GiRLS)オフィシャルブログ

もう一人はAKB48の姉妹グループで大阪難波を拠点に活動しているNMB48の三浦亜莉沙(みうらありさ)さんです。
三浦さんは、今年になって参加した第3期メンバーで、まだテレビに写ることは少ないのですが、NMB劇場での公演や吉本百年物語には既に参加しているそうです。

三浦亜莉沙プロフィール
三浦亜莉沙オフィシャルブログ

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明石家さんまが、今津久寿川町の第1久寿川荘に住んでいたことは既に紹介しました。

第1久寿川荘は解体されて今はマンションになっています。この第1久寿川荘の1階の角はタンポポと言う美容室になっていました。





第1久寿川荘のタンポポ美容室の部分が写った写真が見つかりました。





写真は昭和30年代ですが、前にも書いたように、もうこのころすでにオンボロアパートでした。

写真奥には、当時のこのへんの子供達の格好の遊び場だった新川の堤防が見えます。

道沿いのタンポポとその隣は道から直接入ることができましたが、一般の住民は路地の奥の玄関から部屋に入るようになっていました。

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明石家さんまが、むかし甲子園に住んでいたことは既に紹介しました。

明石家さんま★第一久寿川荘に住む

当時、さんまは甲子園網引町の新甲子園商店街の中の何軒かのお店によく出入していました。





通っていた銭湯は、以前ショコママさんも書かれていましたが、酒蔵通り沿いの『甲子園温泉』でした。ただし、一人ではなく、よく、向かいの『かめや食堂』の男の子を誘っていくことが多かったそうです。

ちょうど「子連れ狼」が流行っていたころで、さんまはその男の子ことを「大五郎」と呼んでかわいがっていました。ただし、その子の本名は大五郎ではありません。

ちなみに、なにぶん無名時代のことですからお金がなく、かめや食堂には大五郎を誘いに行くだけで、食事はしませんでした。

既にかめや食堂は廃業し、現在は別の飲食店になっています。



また、甲子園温泉も廃業し、現在は空き家になっています。



もう一軒、よく立ち寄っていた店が、お好み焼屋の『真七美(まなみ)』です。
とてもお好み焼が食べられるお金はもっていませんでしたので、いつも「おでん」を何品かとって空腹をしのいでいたそうです。時には落語家仲間と来ることもあったそうです。



真奈美は、お好み焼屋からお食事処になりましたが、今もおなじ雰囲気で営業中です。
当時は母娘で営業していましたが、現在では娘さんが一人でがんばっておられます。
さんまのことはよく覚えておられ、色々なエピソードを聞かせていただきました。
とても書ききれませんので、興味のある方は営業時間などお確かめのうえ、ご自分でお聞きください。

   『お食事処 真七美』 0798-47-7162

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さんまさんが文化勲章でも頂くと面白いのですが…。
[ imamura ] 2011/10/05 10:21:30 [ 削除 ]
今津っ子さんもご覧になったとのことでしたが、少し前の「さんまのまんま」の明石屋さんまと芦田愛菜ちゃんの「今津久寿川&西宮」談義は本当におもしろかったですね。以下の動画でアップされていますが、9分半過ぎからがその部分です。もちろん最初からご覧になった方が一番いいですが・・・・
http://www.dailymotion.com/video/xikjj8_yyyyyyy-yyyy-1of2-110423_shortfilms

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/10/05 12:24:43 [ 削除 ]
おかえりなさい!!
以前よりお元気でお帰りになったとのこと
安心いたしました^^v
また、楽しい記事の再開を喜んでいますね!!
[ ショコママ ] 2011/10/06 22:02:21 [ 削除 ]
★akaruさん。
そうなれば面白いですが、ちょっと厳しいでしょうね。

★西宮芦屋研究所員さん。
愛菜ちゃんは、住んでいる所を最後まで「西宮」と言っていましたが、愛菜ちゃんは甲子園のH幼稚園に通っていて、もし東京に移住しなければ甲子園の某小学校に入学の予定だったとの情報もあります。

★ショコママさん。
入院中は規則正しい生活をしていたので、元気でした。
退院後はそうは行きませんが、まあ、健康には気をつけたいと思います。

[ 今津っ子 ] 2011/10/07 22:19:45 [ 削除 ]
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 前回紹介したカットに描かれた地点の少し東です。

「ゲゲゲの鬼太郎」の「陰摩羅鬼(おんもらき」に描かれた今津です。



著作権の関係で、カットのイメージを描いてみました。

店の名前が書かれた看板が3つ描かれています。また、「今津駅前商店街」のアーケードは「今津」の文字を省略して描かれています。



昭和47年の住宅地図に、バー「明星」、「ひぐち(樋口商店)」、「田中屋」が3つとも載っています。



アーケードは形を変えて今もありますが、当時の建物は残っていません。
左側の駐車場が「明星」と「樋口商店」の跡地です。



なお、樋口商店の本年(2011年)解体されたばかりですので、撮影が間に合わず残念です。

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おじゃまいたします。
『ゲゲゲの家計簿』、いよいよ今津時代ですね。
でも、あの水木家のたたずまいには、いささか肩透かしをくらわされた感をぬぐえません。
次号以降の展開に、期待したいです。
[ 373 ] 2011/06/12 6:09:32 [ 削除 ]
★373さん。
今回は、水木氏の今津の自宅がはじめて描かれましたね。
様々な資料や、古老の証言と食い違わないので、今のところ、このイラストが当時の家の外観を描いたものと考えられます。
[ 今津っ子 ] 2011/06/12 15:23:42 [ 削除 ]
おおっ、そうだったのですか!
知らぬこととはいえ、不明を恥じ入るばかりです。
「いささか肩透かし」とは、本当にごめんなさい。
これからの連載で、往時の今津界わいもぜひ描いていただきたいですね。
スケッチブックに残っているガスタンクなんか、背景としてはなかなかイイと思うのですが。

そうそう、また『フラモニ』で、蔵出しのエピソードを聞かせいただけるよう、楽しみにしております。
[ 373 ] 2011/06/12 18:29:09 [ 削除 ]
古老の方々にイラストを見せて確認して行こうと思っています。
たしかに、今津の他の風景も描いていただけると嬉しいですね。
[ 今津っ子 ] 2011/06/13 6:56:32 [ 削除 ]
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 明石家さんまは、昭和49年に笑福亭松之助に弟子入りした直後から数年間、今津久寿川町、酒蔵通りの一筋南にあった第一久寿川荘と言う木造アパートに住んでいました。

笑福亭松之助は鳴尾に住んでいましたので、師匠の家に近く、家賃も安かったからのようです。



第一久寿川荘は昭和30年代中頃に建てられましたので、当時は築15年目くらいと言うことになりますが、これがくせ者で、実はこのアパートはどこかにあったアパートを解体した木材を持ってきて建てられましたので、新築直後にすでに中古に見える代物でした。



さすがに現在はちゃんとしたマンションに建て変わっています。



道に面した右角は1階が「タンポポ」と言う美容院になっており、その右の路地を入った奥が入口でした。

現在駐輪場になっている部分がその路地です。



さんまが有名になった後、昔住んでいた家を訪ねると言う企画でやって来て、かつての自室を見て懐かしむシーンがテレビで放映されたことがあります。

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私の知り合いの方は若い頃のさんまさんと、新甲子園市場の近くのお風呂屋さんで何度も会ったそうです。
その頃からお喋りが面白かったそうですよ^^
[ ショコママ ] 2010/12/13 22:42:48 [ 削除 ]
なるほど。
このアパートには同級生が住んでいたので中に入ったことがありますが、もちろん風呂はありませんでしたので、一番近い甲子園温泉に通っていたんでしょうね。
ピッタリ話が合ってよかった (^_^)
[ 今津っ子 ] 2010/12/14 9:15:26 [ 削除 ]
私も明石家さんまさん(not屋)に会いたかったなァ。
[ gri ] 2010/12/14 21:08:18 [ 削除 ]
わっちゃー。。。
明石屋でなく、明石家ですね。
大急ぎで訂正しました (-。-;)
感謝 m(_ _)m

[ 今津っ子 ] 2010/12/14 22:41:15 [ 削除 ]
失礼をお許し下さいね。
それにしても会いたい、さんまさん…銭湯ででもいい。
[ gri ] 2010/12/15 7:22:16 [ 削除 ]
いやいや、すぐに訂正できて助かりました。
これからも何か気付かれたら教えてください。
しかし、本当にさんまファンなんですね。
まいりました (^_^)
[ 今津っ子 ] 2010/12/15 9:05:26 [ 削除 ]
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既に紹介した「水木しげる伝」のカットの他にも、水木しげる氏はコミックの背景に過去の今津の風景を何点か描いています。
今津であると確認できたものから順次紹介したいと思います。

まずは、「コミック昭和史第6巻」に描かれた今津です。
[2011年12月14日、書名を訂正しました]



著作権の関係で、カットのイメージを描いてみました。



場所は水木氏が住んでいた家のすぐ東です。





今城商事とメリー美容室の看板が見えます。1軒おいて左端の店はタバコ屋です。昭和47年の時点では木地商店ですが、持ち主が数回が代わったものの、今もタバコ屋として営業しています。
描かれた店舗から見て、水木氏が住んでいたころではなく、昭和40年代の風景と考えられます。



左端の赤いテントがタバコ屋で、描かれた店のうち唯一現存する店です。

なお、この風景は「水木しげる伝(中)」の中で病院に行くシーンにも使われていますが、左右反転の上、今城商事を病院に見立てて看板を「医院」に変えています。
ただし、元絵をそのまま反転してトレースしたせいか、カット左端に左右反転した「今」の文字が見えるのはご愛嬌でしょうか。


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大正時代、東大を中退して京都に滞在していた新進作家の谷崎は、乗物恐怖症を患っていたために東京に帰って徴兵検査を受けることができず、いよいよ期限が迫って困り果て、窮余の策として友人のつてで、当時は独立した町だった今津の役場で徴兵検査を受けることになりました。

回想録『青春物語』に、その顛末が書かれています。
「今日行かねばもう間に合はぬと云ふ最後の日に、改札口の前を往ったり来たりしながら何台も何台も出て行く電車を恨めしさうに眺めてゐると、万屋の金子さんがやって来て「どちらにお出かけです」と云ふので、「大阪まで」と云ってしまふと、「ではご一緒に」と云はれて、断り切れずに乗ったのであった。しかし金子さんのお陰でどうやら自身を得た私は、大阪に着くと阪神で今津の役場へかけつけたが、もう時間まで間に合はなかったのであった。」
昭和8年に西宮と合併するまで、今津小学校の東南の角に今津町役場がありました。





夕暮れの今津にやってきた谷崎は、役場の前で途方に暮れ、しょんぼりたたずんでいたのでしょう。



役場の建物は合併後も診療所等として使われて戦後まで残りましたが、昭和30年代中頃、小学校の校舎増設のために取り壊され、更にその校舎も今は無く、現在は六角堂が建っています。



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今津時代の水木氏がどのような建物に住んでいたか、少しずつですが解明が進んでいます。
現在分かっているのは、水木氏が東京に引っ越した直後の昭和33年ころの様子です。

水木氏から家を引き継いだのは東歯科の東氏ですが、その東氏と同じ昭和4年生まれで今津幼稚園(戦災で廃園)の同級生であり、また東歯科の斜め向かいの今津米穀店のご主人でもある竹内氏からの聞き取りや、近隣の方々の記憶を元に正面から見た見取り図を描いてみました。



前回紹介した昭和36年版住宅地図のほか昭和33年版、昭和39年版等と照合したところ、どの地図にもそれぞれ誤りがあり、当時の住宅地図は信頼性が低かったようです。

竹内氏が今津米穀店を始めた時には、既に水木氏は今津に住んでいましたので、残念ながら、今のところそれ以前の様子は水木氏の著作などから推測するしかありません。

今津時代が最も詳しく描写されていると思われる『ほんまにオレはアホやろか』(1978年、ポプラ社)には次のように書かれています。
「ある日、西郷という人が訪ねてきて、ぼくの家の下をゼヒかりたいという、なにをやられるのですかときくと、パチンコ屋だという。」
「パチンコ屋は、あまりはやりもしないのだが、すぐ階下のことだから音がうるさい。」
この記述によると、後に三隆屋になる部分でパチンコ屋が営業していたことになりますが、今のところ近隣の方の中でこのことを覚えている人はいません。やがて、パチンコ屋は閉店します。
「パチンコ屋の後は整理して、歯医者に貸した。」
と言うことは、1階が東歯科になったことになりますが、実際には東歯科は2階で開業しました。この点、謎が残ります。

まだまだ解明は前途多難なようです。

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8月30日付で水木氏が住んでいたのは、後に「中山治療院」になったと家であるとしましたが、その後の再調査の結果、その2軒となりの「東歯科」であると判明しましたので、本文を訂正しました。
調査が不十分であったことをお詫びします。



また、併せて、カットが水木氏が今津に住んでいたころではなく、後の情景を描いたものであると推測する根拠も訂正しました。

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『青年の環』に、かつて一面の畑や荒地であった現在の今津久寿川町が、やがてすっかり宅地化されてしまった様子を描いた、次のような一節があります。

彼女はお寺の前を左にとって公設市場の前通りに出た。(中略)よし江は公設市場の入口の前の小川の橋の上から下流の方をのぞみ見たが、そこからは夫のつとめていた火力発電所の高い三本の煙突と発電所の凸字形になったコンクリート建ての屋根が、青い空のかなたに見えたきりであった。彼女がみようとしたはるか手前にあるはずの、かつて自分の住んでいた発電所の社宅は、前がひろい葦の野っぱらだったからここからでも見えるにちがいないと思ったのに、それは公設市場のうしろの風呂屋の建物にかくれて見えなかった。煙突はじつに大きなもので、会社の人は東洋一と言っていたが、前に並んだ二本は煙のために頂上がもう真っ黒になってしまっていた。(中略)それから彼女は間もなく自分で意識することなく念仏をとなえながら、甲子焼を焼いている菓子店木寅屋の前をとおりすぎ、さらに立ちならぶ柳の枝が見事に水面近くまでたれている新川の石橋を渡った。そこを真直ぐつききって行くならば、それは甲陽中学の前に出る道であった」

野間氏が今津小学校の4年生であった大正12年の地形図と、中学高校時代を過ごし、京大に進学してこの地を離れてまもない昭和10年の地形図を比べながら、その変化を見てみます。(見やすくするため、地図は反時計回りに45度回転させてあります)



 「彼女はお寺の前を左にとって公設市場の前通りに出た。」

彼女は駅から南にやって来て、常源寺(現在は鳴尾に移転)の角で左に曲がって公設市場の方に向いました。
大正12年の地図で駅名が「いまづ」とあるのは、当時、ここが今津駅で、大正15年に阪急電車の西宮北口〜今津間を開業した時に阪神電車もそこに駅を新設し、同時にそちらを今津駅として元の駅を川の名前にちなんで久寿川駅と改名したことによるものです。
ちなみに、この小川の名前は江戸時代以来「九十川(くそがわ)」でしたが、駅名にはふさわしくないと言うことで、この時に、響きが似て字面が良い「久寿川(くすがわ)」に改められました。

 「よし江は公設市場の入口の前の小川の橋の上から下流の方をのぞみ見た」

「小川の橋」は久寿川に架かる橋のことですが、橋の名前は不明です。
 「そこからは夫のつとめていた火力発電所の高い三本の煙突と発電所の凸字形になったコンクリート建ての屋根が、青い空のかなたに見えた」
いずれの地形図にも、発電所と三本の煙突が書かれています。
 「彼女がみようとしたはるか手前にあるはずの、かつて自分の住んでいた発電所の社宅は、前がひろい葦の野っぱらだったからここからでも見えるにちがいないと思ったのに、それは公設市場のうしろの風呂屋の建物にかくれて見えなかった。」
大正12年の地図によると橋と社宅との間は一面の畑と荒地で、当時は見通せたようですが、昭和10年の地図を見るとすっかり建物で埋まり、もう社宅は見えなかったのもうなずけます。
「公設市場のうしろの風呂屋」となっていますが、風呂屋は公設市場に遅れてできた私設市場の裏にありました。
なお、当時、西宮公設市場以外には大正末にできたこの今津公設市場くらいしか無く、また久寿川駅の南には商店街もあって、鳴尾村など周辺の村々からの客でかなり賑わっていたようです。

 「甲子焼を焼いている菓子店木寅屋の前をとおりすぎ」

今津公設市場の東隣が「木寅(きとら)商店」です。運良く、橋の上から東を向いて写した写真が残っています。



木寅商店のところを拡大してみます。



「甲子焼」と書かれた看板が2枚見えます。
戦後は「キトラパン」として知られていますが、当時の木寅商店は菓子屋で、パンは神戸屋から仕入れていたようです。

木寅商店あたりまでの道は43号線に呑込まれて、今ではたどることは出来ませんが、川から東は元の甲陽中学、現在のダイエーまで昔通りの道が残っています。

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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