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『今津物語』は、野間のいたころのこの辺りの風景と共に、百瀬結核病院について取り上げています。

百瀬結核病院は、大正六年に堺から転居してきた百瀬結核研究所並診療所のことで、結核をなおすためには、阪神間の空気のよいところということで今津が選ばれたのだから、新川のあたりは住むのにこころよいところだったのだろう。
今の百瀬診療所の所長さんは語る。
「父は海軍から派遣されてドイツに行って結核のワクチンを発見した。ツベルクロストローミンというのですが、結核菌そのものを薬で殺して使うのです。日本ではじめての専門家というので、患者は各地から来て忙しく、専門の研究もできにくいほどでした。薬は培養して全国的に売りさばいた。また新川に起生橋(きしょうばし)と言う橋をかけたのも父ですし、大林組が設計した、大きなドイツ洋風の家をつくったのも父です。それでこの診療所を起生園といっていました。」
そして、「起生橋の渡り初め」の写真を掲載しています。



橋の左の標柱に「きしょうばし」、右の標柱に「大正九年七月」とあり、更に写真右端の門柱に「起生園」の看板が写っています。

では、その起生橋は新川のどこに架かっていたかを当時の地図に求めてみます。







昭和8年発行の地図に起生橋の名前が見え、遠藤氏作成の復元図に「石造の橋」とあることから、高潮橋と洲鳥橋の中間に架かっていたと分かります。
なぜか大正12年の地形図と連合福祉会の復元図には記入されていませんが、昭和10年の地形図には石橋が描かれています。
戦後の昭和27年の地図にも同じ場所に石橋が記入されていますが、この数年後、43号線に橋が架けられた際に撤去され、現存しません。

ただ、写真と地図を見比べると、一つの疑問が残ります。

百瀬結核病院は橋を渡った右側にあったはずです。では写真の左にある2階建ての大きな建物は何でしょうか?
大正12年および昭和10年の地図に記入されている建物とは形が異なるように見えます。
今後の課題にしたいと思います。

なお、昭和8年の地図には百瀬病院の文字が1ブロック南に書かれていますが、これは単純な誤記と考えられます。

今津の有名人 | コメント( 2 )

はじめまして。阪神西宮の43南に、10年程前から居住しております者です。百瀬診療所の検索から辿り着きました。貴方様ご投稿の他の頁では、昭和51年の駅のホームに百瀬診療所の広告を見つけておられますが、歴史ある病院=診療所のはずが、その後の消息は全く判らず、不思議な印象を持っております
実は昭和初期、私の親戚が百瀬病院に入院していたと耳にしたことがあり、その後はどうなっているのか・・・と検索してみました
他の頁も拝見させていただきます。今後ともよろしくお願い致します
[ speedbirdboac ] 2012/06/14 15:30:30 [ 削除 ]
★speedbirdboacさん。
はじめまして。
私の百瀬病院調べは、この時はここまででした。
その後、どこかで関係者の消息を聞いたような気がしますが、記憶があいまいです。
申し訳ありません。
分かりましたら、また報告させていただきます。
[ 今津っ子 ] 2012/06/15 19:39:10 [ 削除 ]
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北野中学校に通っていたころの野間宏は、発電所の社宅を出て、今の甲子園高潮町に住んでいました。

南野武衛氏にあてた手紙で

父が死に、社宅を出て母親が、今津高潮というところに家を建て、そこで中学時代には住んでいました。これは甲陽中学校と百瀬結核病院の中間位のところにありました。

と書いています。

甲陽中学校は甲陽高校として近年まで甲子園の駅前にありました。一方、百瀬結核病院は現在はありません。

大正12年測量の地形図でその位置を探してみます。



この地区は昭和に入り急速に宅地化が進みました。昭和10年修正の地形図と比べてみます。



2枚の地図に示された病院が百瀬結核病院であることは、今津連合福祉会が作成した昭和12年当時の復元図、および今津育ちの元大阪ガス副社長の遠藤浩氏が作成して2006年8月19日付朝日新聞の阪神版に掲載された戦災直前の復元図によって確認できます。



中学と病院の中間位と言う情報しかありませんので、家のあった詳しい場所は不明です。

なお、戦後は百瀬結核病院はなくなり、代わって元の本宅の位置で百瀬診療所として開業していましたが、それも20年くらい前に廃業し、今は宅地になっています。


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作家の野間宏は、大正11年に出来た今津発電所(今のきんでん学園)の社宅に住み、ここから今津小学校に通っていました。



この社宅について、野間は南野武衛氏にあてた手紙で

私が住んだのは、今津発電所の社宅でした。今津町の網引といっていたるところに八軒二階家がたち、その右端に住んでいました。家の裏が発電所の用水池で、そこで泳いだり、魚をとったりしました。

と書いています。

野間氏が小学校4年の時、大正12年測量の地形図を見ると、発電所の北に池があり、更にその北の道(現在の臨港線)沿いに住宅が描かれています。



また、氏の『青年の環』には

かつて自分の住んでいた発電所の社宅は、前がひろい蘆の野っぱらだった。

とあり、道の北側が荒地に描かれていることから、ここが社宅であったと考えて間違いないと思います。



戦後、社宅の跡地には小さな民家が密集していましたが、やがて整理されて今は大きな店舗に変わりました。



ところで、ここは今津久寿川町ですので、氏の言う「今津町の網引」と食い違っているように見えますが、久寿川と新川にはさまれた細長い地が久寿川町になったのは昭和13年のことで、それ以前は高潮町、洲鳥町、網引町の一部で、発電所のあたりは網引町にあたりました。


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野間宏の続編が楽しみです。私が持っている資料(1968年のグラフ西宮)には、神戸から引越してきた直後に住んでいた場所(鳴尾村字中津)のことが書いてあります。もし、今津っ子さんがこの資料をお持ちでないなら、例のお店に預けておきますが如何ですか?

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/09/15 21:23:51 [ 削除 ]
グラフ西宮は未見です。
よろしくお願いいたします。
[ 今津っ子 ] 2010/09/16 0:46:55 [ 削除 ]
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NHK朝ドラの影響でなにかと話題の多い水木しげる氏ですが、氏が東京に移住する直前の昭和28年から数年間、今津に住んでいました。

「ゲゲゲの鬼太郎」は氏の代表作の一つですが、そのころ紙芝居作家であった水木氏がその原形である紙芝居版の「墓場の鬼太郎」を初めて書かいたのは、ちょうど今津に住んでいた時でしたので、鬼太郎は今津生まれとも言えます。

では、今津のどこに住んでいたかですが、喫茶「初音屋」の店主である立花吉博さんの水木氏本人や当時を知る人々からの聞き取り調査の結果、今津駅前商店街の、後に「東歯科」が入居した家であると判明しました。昭和36年発行の住宅地図にその東歯科が見えます。地図では三隆屋と東歯科が並んでいますが、実際には1階が三隆屋、2階が東歯科だったそうです。



水木氏の「水木しげる伝」の中に、むかしの今津を描いたカットがあります。このカットは他の著作や記事でも見ることができますが、ここでは著作権の関係でその中に描かれた店のカンバンの文字だけを紹介します。



中央の「スイス堂」は地図と同じです。その左にある「今津」は、地図によると「今津米穀店」であることが分かります。カット左端の「ほねつぎ」は金沢治療院の看板と考えられます。カット右端に「ユニオンカメラ店」が路上に置いたものと思われる「三菱カラー」の看板が見えますが、三菱製紙がカラー印画紙を発売したのは昭和40年のことですので、このカットは水木氏が今津に住んでいたころではなく、昭和40年代の情景をなんらかの資料により描いたものであることが分かります。

このカットと同じ位置から現在の様子を撮影してみました。



中央の黄色いテントの「たこ八」と、その右隣の「ぐりる池田」の境目の向かいが水木氏の家にあたりますが、現在はその一角全体がパチンコ店になっているので、かつての面影はありません。

本稿は、喫茶「初音屋」の立花吉博さんの協力を得て書くことができました。同店では、更に詳しい話が聞けます。

(2010年9月24日、一部内容を訂正しました)

今津の有名人 | コメント( 5 )

たこ八は新婚の頃から行っているお店です。主人が水木しげるはたこ八の傍に住んでいたと話していましたが本当だったのですね。初音屋さんにもよく行きました。
あのコーヒーが飲みたくなりました。
[ ショコママ ] 2010/08/31 0:36:01 [ 削除 ]
大変興味深く読ませていただきました。
初音屋さんは高校時代に寄り道してました〜
確かチーズケーキが美味しかったような。。。

あのあたりに水木しげるさんがいてはったんですか。

私の元実家の近くには都はるみさんが
小さいときに住んでたと聞いたことがあります。
ほんとかどうか・・・もう祖母も亡くなったので
確かめる術もありません。

[ ちゃめ ] 2010/08/31 0:44:54 [ 削除 ]
さすが老舗の喫茶店さんならではですね。
立花さんの息子さんには、今津中テニス教室でいつもとてもお世話になっています。彼は私の次をになってくれそうです。
[ 下駄 ] 2010/08/31 10:09:08 [ 削除 ]
いつもながら今津っ子さんの綿密な調査には驚かされます。この場所のパチンコ屋さんが、近々建替えになりますが、この機会に何か鬼太郎のモニュメントでも作ってもらえればいいですよね。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2010/08/31 14:30:05 [ 削除 ]
ショコママさん。
私は夏もホットなのですが、初音屋さんではよくアイスを飲みます。

ちゃめさん。
都はるみですか・・・。初耳ですが、調べてみます。

下駄さん。
長くお店を続けておられるのは、ご主人の人柄によるものも大きいのではないでしょうが。

西宮芦屋研究所員さん。
初音屋さんも、なにかモニュメント的なものを考えておられるようです。

[ 今津っ子 ] 2010/09/01 19:33:49 [ 削除 ]
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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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