2012/09/09 1:37:02
更新はサボっていますが、元気に活動しております。
ブログ移転まであと20日を切り、消えてしまうコメントをどうするかまだ決めかねています。
健康のため夏は街道歩きをしないようにしているのですが、先日、暑さにもめげず、「多田道」を歩いてきました。伊丹から多田神社に通じる古道で、県道尼崎池田線(通称、産業道路)ができるまで、この地区を南北に貫通する唯一の道でした。今回は終点の多田神社までは無理でしたので、伊丹川西間だけにしました。
大部分は工場や住宅の間を通りますが、ところどころ田畑が残っています。
久代(くしろ)や加茂地区は無花果畑が目立ち、ちょうど収穫の季節とあって、テレビ的な陳腐な表現をすれば「たわわ」に実っていました。
旧集落部分には、古い民家がたくさん残っています。
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お久しぶりです!お元気そうで良かったです!
[ ピース ] 2012/09/09 7:34:16
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多田神社、昔一度お参りしました。関学のアメフトが奉納額を上げていたような記憶がありますが、曖昧な記憶です。
[ imamura ] 2012/09/09 10:15:33
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★ピースさん。
ご心配をおかけします。
以前にくらべてペースは落ちましたが、まだまだちょろちょろと歩いています。
★imamuraさん。
私も、神社ではありませんが、多田へクリ拾いに行った記憶があります。同じく遠い昔のボンヤリした記憶ですが。
[ 今津っ子 ] 2012/09/10 15:07:56
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2011/04/15 20:36:31
前回見た郡界の変更がいつのことであったかが問題になりますが、森具の「阿弥陀寺」に今も残り、南野三郎氏と飯田寿作氏がその存在を明らかにした2つの什器によって年代を絞り込むことができます。
一つは貞享3年(1686年)の年記がある半鐘です。
「摂津菟原郡夙村阿弥陀寺什物」とあり、夙村が武庫郡であると明記されています。
もう一つは、その約30年後の正徳3年(1713年)に作られた双盤です。
村名は書かれていませんが、「武庫郡西宮阿弥陀寺」とあります。
これは2つの年号は国絵図類に示された内容と矛盾しませんので、郡境の変更は貞享3年(1686年)から正徳3年(1713年)の約30年間のことであったと考えられます。
以上の検討を元に、境界の移り変わりを地図にまとめてみました。
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「旧西国街道を歩く」は、ここで一旦終了します。今回新たに解明できたこともある一方、先人の研究成果とは異なる説を提言させていただいた点も多数ありますが、従来利用されていなかった資料をを含め、一般人が利用できる資料のほぼ全てを調査のうえで得た結果ですので、この点ご理解ください。
私が旧西国街道を調べようと思ったきっかけは、HP":
マイケルのここは芦屋の打出を見たことでした。それ以前の西宮の歴史や西国街道に関するどの著書やHPでも旧西国街道については軽く触れる程度でしたので、マイケルさんはとても苦労されたようです。旧西国街道調査の先駆者であるマイケルさんに心から敬意を表したいと思います。
最後に、資料収集ご協力いただいた西宮市立郷土資料館、西宮市役所情報公開課および公園緑地課、芦屋市立美術博物館、阿弥陀寺、広田神社に深く感謝します。まだ古文の解読にあたっては門戸厄神東光寺松風館(資料館)大崎正雄氏の手を煩わせました。
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2011/04/15 20:34:59
有史以来、西宮市南部は武庫郡に、芦屋市全域は菟原郡に属していました。明治29年、武庫郡、菟原郡、八部郡が合併して「大」武庫郡になり、やがて郡内の町村は順次「市」となって郡から離脱していき、昭和29年の宝塚市成立を最後に消滅しました。
したがって、武庫郡と菟原郡の境界線は現在の西宮市と芦屋市の市境とほぼ一致しますが、実はここが境界線になったのは江戸時代中頃のことで、それ以前はもう少し東に境界線がありました。
平安時代、延長5年(927年)に出来た『延喜式神名帳』に、「大国主西神社」は菟原郡に属すると書かれています。「大国主西神社」を母体に現在の西宮神社が成立し、その位置は変わっていないことが知られていますので、平安時代は西宮神社は菟原郡であったことを示しています。
境界線が西宮神社より東にあったことになりますが、常磐町の一本松の根元の石碑に「史蹟往古武庫菟原郡界傳説地」とあるのは、そのような伝承がこの地に残っていたためだと思われます。
何故今より遥か東に境界線があったか疑問が生じますが、これは既に見たように旧夙川がこのあたりを流れていたこと関係があると推測されます。
旧夙川が両郡の境界線であったと考えると、西宮神社が菟原郡に属し、一本松あたりが境界線であったことに説明が付きます。
その後、郡界の分かる記録はしばらく途絶えます。
江戸時代になり、幕府の命により各地の藩主の手で4次にわたり国絵図が作成されました。最初に書かれた慶長10年(1605年)の『慶長国絵図』には郡界が描かれていませんが、その約40年後の正保2年(1645年)頃に作成された『正保国絵図』では郡界が始めて明示されました。
一般に知られている位置ではなく、夙川が境界線になっていて、西宮神社は今と同じ武庫郡ですが森具地区は菟原郡でした。
続く元禄15年(1702年)の『元禄国絵図』でも夙川が境界線になっていて、この間は変化がなかったことが分かります。
ところが、この後、武庫郡と菟原郡の間で境界論争(山論)が起こり、『山論裁許状』により境界線が確定しました。本文には「於然者武庫郡・菟原郡境之儀、堀切川下より高塚迄、西宮町打出村田地畔限・・・」とあり、裏面に絵図が添えられています。
夙川ではなく、ほぼ現在と同じ位置になっています。したがって、森具地区は武庫郡に移ったことになります。
幕末の天保9年(1838年)に作成された『天保国絵図』でも同様の位置に境界線が引かれています。
(つづく)
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2011/04/11 2:59:36
明治政府が成立し、西宮町から完全に独立を果たしました。当時の通達類には「守具村」とありますが、読みは書かれていません。
当時の読みが分かる資料が2つ残っています。
一つは、明治7年に開通した鉄道の工事関係書類です。
『鉄道左右払下地略図』には村の名にも川の名にも「守具」が用いられています。川の名の読みは「しゅく」しかありませんので、この時点では村名も「しゅく村」だったことが分かります。
もう一つの資料は明治政府の命により兵庫県が明治7年に作成した『兵庫懸管下各区并村名取調書』です。この取調書では全ての町村名に仮名を付けることが義務づけされており、漢字では従来通り「守具村」のままですが、「モリク」と仮名が添えられていて、読みが変更されたことが分かります。
さらに、明治13年の『戸長役場配置』では「森具」と言う漢字表記が始めて登場し、以後は「森具」のみが使われるようになります。
つまり、明治の初めに「守具(しゅく)」→「守具(もりく)」→「森具(もりく)」と慌ただしく変わったことが分かります。
行政区画としては消滅した森具は、今も公園やバス停その名前を残していますが、さらに古い「守具」もJRの施設名として現在も見ることができます。
夙川を渡る鉄橋です。
川の東側の道に架かる短い鉄橋です。
JRは明治7年の開業以来、終始「守具川」と表記していることになります。
踏切りにも、「守具」の名前が残っています。
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「森具」は昔は宿場だったと言う説があります。
「しゅく」に「宿」と言う漢字が当てられることがあったことが、そのような説が起こった原因の一つでしょう。しかし、当てられた漢字から安易に地名の由来を推測すべきでないことは地名研究の鉄則です。現に、茨木市の「宿久」は宿場でありません。
平安時代の記録によれば、兎原郡に「須岐(すき)」と言う駅(=宿)があったそうで、「すき」と「しゅく」は音が似ていることから、須岐は森具のことだ考える人もいますが、音の類似だけが根拠なら単なる想像力の産物と言えます。
さらに、同じ平安時代に朝廷が定めた蘆屋(あしや)駅は須岐駅を同一とし、今の芦屋ではなく、森具のことを指すと言う説まであります。
しかし、既に見てきたように森具の前身である「夙村」は旧西国街道から外れた「古夙」の地にありましたから、西国街道の宿であったとは考えられません。もちろん、古くは西国街道沿いにあった宿が後に古夙に移ったとか、西国街道の道筋が昔は違っていた等の仮説を導入すればいいのかも知れませんが、もうそれでは言った者勝ち、本に書いた者勝ちの世界で、著者の空想をあたかも歴史的事実だと信じ込まされる読者がお気の毒としか言いようがありません。
なお、『大社村誌』には森具村が野見宿禰に由来すると言う更に古い時代の伝承が記載されています。
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『西宮町浜図 b』
阪神間の街道を歩く
『摂陽群談』雄山閣復刻
『五畿内志・泉州志』雄山閣復刻
『摂津國名所大絵図』多数の書籍、HPに収録
『葛馬図』
阪神間の街道を歩く
『天保国絵図』
国立公文書館デジタルアーカイブ
19区制施行時、戸長役場配置『西宮市史』第6巻に収録
『鉄道左右払下地略図』西宮市役所情報公開課所蔵
『鉄道左右土地図』西宮市役所情報公開課所蔵
『兵庫懸管下各区并村名取調書』「明治前期全国村名小字調査書」ゆまに書房刊
『西宮町誌』中外書房復刻
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2011/04/11 2:58:18
行政区画としての森具は、昭和13年の字名変更で消滅しました。森具の名前は地域の通称として今でも残っていますが、これは明治21年の町村制実施の際に近隣の村々と合併し、更に当時の西宮町と一部を換地して出来た大社村大字森具を指します。そこで、明治18年の地形図により江戸時代以来の旧森具村の範囲を確認します。
現在の地図に重ねてみます。
御茶屋所町辺りは元は西宮町であり、逆に旧国道より南にも森具村が広がっていましたが、大社村成立時に旧国道より北はすべて大社村大字森具になり、代わりに旧国道より南は堀切川以西を除き西宮町に編入されました。
現在では「森具」と書いて「もりぐ」(元は「ぐ」と濁らずに「もりく」)と読みますが、これは明治時代以後のことで、それ以前には「守具」「夙」「宿」等と書き、川の名前と同じ「しゅく」でした。
その「しゅく」村の存在を確認できる最古の資料が、江戸幕府成立から7年後、慶長10年(1605年)の記年がある『慶長国絵図』です。
「宿火村」とあるのは「宿久村」の誤記です。なぜそう断定できるかと言うと、「しゅく」を漢字で表す際に「宿久」を当てることが当時広く用いられていたと見られるからです。北摂にはかつて「宿久」と呼ばれる地域があり、今でも茨木市宿久庄(しゅくのしょう)として古い表記のまま使われていますし、また、「宿久」という名字も存在します。
村名が「森具」、川の名が「夙川」と定着する以前、江戸時代から明治初めまで、どのような漢字表記が使われてきたかを表にまとめてみました。
年表の形にしてみると、一部の例外を除き、時代とともに名前が変わってきたこと、そして、明治時代に村名が「もりく」となるまで、村名、川の名ともに「しゅく」であったことが分かります。ただし「夙村」と言っても独立した村ではなく、実際には西宮町の一地区に過ぎませんでした。
江戸時代の中頃まで、村も川も漢字表記には「夙」が用いられていました。ただし、「夙」ではなく「宿」が用いられた例外が3つあります。
『慶長国絵図』は江戸幕府成立直後で、村々がまだ形成過程にあって、後々の国絵図などと村名の漢字表記が異なっていることが多く、「宿久」もその一つと考えられます。『五畿内志(摂津志)』に「宿渓」と言う表記がありますが、同書は著者の何らかの意図によって他に例を見ない名称や漢字表記が多数見られますので、特殊な例外と言えます。『摂津國名所大絵図』は広く市販されたいわゆる旅行ガイドですので、慎重に漢字を選んだとは考えられません。
やがて江戸時代後期に入り、村名に「守具」の文字が使われるようになったようです。『大社村誌』によると、あくまでも西宮町の支村(枝郷)としてですが、文化(1806年)に独立した村になったとありますので、そのことと関係があるのかも知れません。
『西宮町周辺絵図』と『葛馬図』にも「守具」が用いられていますが、年代がはっきり分かる最初の用例は、明治維新のわずか30年前の天保9年(1838年)の『天保国絵図』ですので、意外と「守具」の用いられた時期は短かったことになります。
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いつもお世話になり申し訳ございません。
西宮の廃線になった路面電車の記事を書いたのですが、その際「森具電停」から森具の話になってしまい、そのことでまた長々と書いてしまいました。今津っ子さんのこの「森具村名の移り変わり」は、一次史料で完全に組み立てられているため考証が完璧であることと、ビジュアルのレベルが雲の上ですので引用しないではいられません。どうかご無礼の程お許しください。
[ 凛太郎 ] 2011/11/06 18:17:04
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★凛太郎さん。
ブログ拝見させていただきました。
私の知らないこともたくさんあり、とても楽しく読ませていただきました。
実は、わたくし、けっこう遅筆な方でして、どちらかと言うと文章が短い分、ビジュアルでごまかしているとも言えます。
めんぼくない。
[ 今津っ子 ] 2011/11/07 19:23:28
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2011/04/03 10:43:06
前回見た旧夙川からいきなり今の川筋になったのではなく、その中間段階として、今の洗戎川あたりが夙川本流の時期があったようで、その河口部に発達したのが西宮港ではないかと考えられます。
それは、今の夙川と西宮神社の間は洪積層で、その範囲内のどこかがかつての本流であったこと、さらに夙村(後の守具村、森具村)との位置からそのように推測します。
今は町名変更で無くなりましたが、戦前は現夙川の東で旧国道の北の地は字古夙(ふるじゅく)と言いました。
一方、古夙から見て現夙川の西、森具集落の南には字今夙前(明治以降は字夙前)がありました。「今夙前」の「前」は「南」と考えられますから、その北の「守具村」が「今夙」であることを示しています。
つまり、地名から見ると「しゅく村」の中心は東から西に移動したことになります。
このあたりのいきさつについて、田岡氏は次のように書いておられます。
すでに入り海の陸地化が進み、耕地化されると、夙川の氾濫が問題になるのは必然であろう。ここで、夙川の改修がおこなわれ、今日の河道をとるようになったのである。工事にあたり、古夙の洪積
層をはいで堤防を築いたので、残っていた住民たらは、一部新宿へ移るとともに、一部は川西の森具に移り、純農村を形成したのである.その時点は、旧西宮の発展と考え合わせ、鎌倉中期末の弘安ごろと推定してよいであろう。
古宿の跡は、堤防を築くために表土をはいだが、なお、一部に洪積層が残り、畑地になっていた。明治三十年代の後半に、阪神電車の工事にあたり、線路築堤のために土砂が売られ、地主は水田化することを喜んだが、開通のあと住宅地化がはじまり、再び地あげの必要が起こり、いま見るような地形になったのである。 |
氏は夙川の付け替えと村の移動を鎌倉中期のことと考えておられますが、実際は江戸初期であった可能性の方が高いと思われます。今の森具は御茶屋所の街道合流点の西にありますが、慶長10年(1605年)の『慶長国絵図』には、合流点の東、旧中国街道沿いに宿久村(夙村)が描かれていて、これは字古夙の地にあたり、描かれた川筋は現夙川ではなく、今の洗戎川あたりであると読み取られるからです。
もちろん、国絵図だけをもって結論づけることはできませんので、更に調査が必要なことは言うまでもありません。
参考までに、この付近を描いた江戸時代の数枚の西宮町絵図を紹介します。
森具村については、本文中に宿久、宿、守具、森具、と様々な表記が混在していますが、そのいきつについては次回に説明します。
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『慶長国絵図』「江戸幕府撰慶長国絵図集成付江戸初期日本総図」(柏書房)に収録
※阪神間では尼崎市立図書館にのみあり
『貞享図』「武庫の川千鳥」吉井良秀刊の付図(『西宮市史』にもあり)
『西宮町浜図 a』
阪神間の街道を歩く
『南波図』
阪神間の街道を歩く(『西宮市史』にもあり)
『周辺絵図』
阪神間の街道を歩く
『西宮地名考』田岡香逸著、民俗文化研究会刊
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ここまで詳しくかつビジュアル的わかり易く表した夙川の流れの変遷の解説が過去にあったでしょうか?
西宮が他の都市に対して一番自慢できるものは周辺の公園を含む「夙川」だと思います。
夙川を歴史、文学、地誌、自然などいろんな角度からとらえた「夙川学講座」をどこかでやってみたいと思っています。
それが実現した時には、今津っ子さんには是非とも講師としてこの「夙川の流れの変遷」の講義をお願いしたいと思います。今年の秋ごろには「夙川学講座」開講の布石となるイベントを計画しています。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/04/03 21:42:56
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『女工哀史』の細川和喜蔵にも、夙川あたりのエピソードがありますよ。
[ imamura ] 2011/04/04 23:32:57
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★西宮芦屋研究所員さん。
夙川学とはおもしろいですね。
ネタ集めと画像の作成なら協力させていただきますが、私はあくまでも裏方と言うことで。
★akaruさん。
『女工哀史』に西宮に登場するとは知りませんでした。
めんぼくございません。
[ 今津っ子 ] 2011/04/05 6:46:35
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『女工哀史』の細井(上に細川と書いたのは間違いですので訂正)和喜蔵と西宮との関わりを、今津の詩人、谷田寿朗さんが、『歴史と神戸』(H20年8月号)に詳しく書いておられます。夙川あたりの昔の風景を和喜蔵が書いた文章も紹介しておられますよ。
[ imamura ] 2011/04/05 8:47:31
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★akaruさん。
なるほど。私はこの分野にうといので早とちりしたようですね。
重ね重ねめんぼくございません。
夙川の風景については私より西宮芦屋研究所員さんの方がより関心を持たれると思います。
西宮芦屋研究所員さん、よろしく。
[ 今津っ子 ] 2011/04/06 20:04:43
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昨日松本整形に行った帰りに例の喫茶店に行きました!
昔はよく行ったところで、マスターは私のこと、覚えているとおっしゃってくださいましたが、
お愛想かも・・・
今津っ子さんのお話をしたら
今までおられたと・・・残念でした^^;
[ ショコママ ] 2011/04/07 17:13:59
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★ショコママさん。
ショコママさんが来られたと、今朝聞きました。
なんで電話してくれなかったのかと責めたら、忙しかった、と反論。
ホントかな。。。怪しい。。。
まあ、同級生なのでこんな言い合いができるのですが。
しかし、ショコママさんのことはよく覚えていると言っていましたよ。
これはホントみたい(^-^)v
[ 今津っ子 ] 2011/04/07 22:45:06
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2011/04/03 10:40:53
小さな川はその流れが時によって変わることが容易に想像できますが、一級河川や二級河川と呼ばれるような大きな川の多くも、かつては今とは随分違うところを流れていました。
西宮から大阪に行く際に渡る新淀川(現在は単に淀川)も、明治末に一面の田畑や多くの村を水没させて掘られたもので、それまでは中之島の土佐堀川堂島川が淀川の本流でした。
また、武庫川も、時代は不明ですが、元は今の藻川あたりが本流であった考えられています。
現在の尼崎市は川辺郡、西宮市は武庫郡でしたが、その境界線は現在の武庫川ではなく、少し東まで武庫郡が入り込んでいたのは、このことと関係があると推測されます。
縄文時代、弥生時代には大阪周辺の平野部はほとんど海でしたが、古墳時代ころには海の水位が下がって平野が形成され始め、その平野部に川が誕生しました。川は、人が手を加えなければ自由に進路を求め、高低差の少ない平野部では増水時にはかなりの幅に広がって海に注ぎ込みます。やがて、平野部に人が住み始めると、堤などを設けて川筋を固定しました。ところが、増水時にはこの固定された川では水量を支えきれず、人の住む地域に流れ込んで多大の被害を被ることになります。そこで、元の狭い流れを川の本流としては放棄し、新たに川を掘って堤を築きました。現在の武庫川もそのようにして出来たと思われます。
夙川も、かつては今とは違うところを流れていました。
西宮の郷土史家で地質に詳しい田岡香逸氏は『西宮の地名』で次のように述べられています。
夙川が現状のように、まっすぐ南流するとうになったのは、堤防を築いて河道を改修したからである。地形に従って自然に流れていたころは、大井手町の上手から東南流し、下は六湛寺川になったと考えてよい。今日では跡形もなくなってしまったが、大井手町の北方は、夙川の堤防に沿うて不毛地がつづいていた。古い絵図を見ると、その地域は細長い池になっている。つまり夙川の旧河道の名残である。 |
田岡氏の説を地図に描いてみました。
江戸時代以前の詳しい川筋は不明ですが、明治18年測量の川筋を青い線で書き加えてあります。入り海に注いでいた旧夙川の名残が延びて六湛寺川になったように見えます。
入り海が陸地化して海岸線が後退すると旧夙川はその役目を果たせなくなり、代わって本流の役目を果たすようになったのが今の夙川です。
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2011/03/29 21:24:40
もう1点、おおよそですが西宮経由になった様子を知ることの出来る資料が残っています。
日本各地の様子を記した『名所方角鈔(などころほうがくしょう)』と『行嚢抄(こうのうしょう)』です。
大正11年刊『武庫の川千鳥』の打出の項で吉井良秀氏はこの2書に言及しています。
東方より、此地の西國街道を過くるに、始めて海岸に打出る地なり、依て此名起る
近江國大津に打出の濱あり、京都より逢坂を越えて、初て湖邊に出づる地なれば云へり、古昔の西國街道は、廣田の條にも云ひし如く、廣田より越水、森具を経て斜に此地に出しなり、今も舊京街道とて僅に小徑殘れり、此街道の事は早く云へる人もあり、行嚢抄に名所方角抄を引きて |
として『行嚢抄』から引用しています。
打出ノ濱、北ハ山ナり、南ハ海ナり、西宮ヨり十八町西ナり、小清水卜云フ宿ヨリ打出ハ未申ナリ、京都ヨリ兵庫へ下レバ海濱へ出ル始ナリ、京ヨリ十三里ナリト云々、私曰此趣此所ノサマニ能ク合タリ、但海邊二出ル始卜書タルハ、山崎通ノ陸路テ經テ小清水村エ到リ、此所二出ル時ノ事ナリ |
つまり「京から下ってきて始めて海に打ち出る地なので打出と言う。但し、これは越水経由で打出に達した時のことである」と言う主旨で、一見すると『名所方角鈔』にこのように書かれていたように見えますが、実はそうではありません。
『名所方角鈔』の原文です。
打出濱、北は山、南は海なり。西宮より十八町西なり、小清水と云ふ宿より西宮は南なり。小清水と打出は未申なり。京都より兵庫へ下れば海濱へ出る初なり。十三里なり。近江に同名あり。過れば雀の松原といふあり。 |
原文には「但し、これは越水経由で打出に達した時のことである」の下りはありません。
『名所方角鈔』は江戸時代の寛文6年(1666年)刊ですが、著者は室町時代の歌人の宗祇(応永28年(1421年)〜文亀2年(1502年))とされています。一方、『行嚢抄』は元禄9年(1696年)自序の刊本です。
つまり、室町時代には西国街道は西宮を経由せず越水から打出に出るのが当たり前であったが、元禄時代には西国街道は西宮経由になっていたため、『行嚢抄』の作者は、わざわざ「山崎通ノ陸路テ經テ小清水村エ到リ、此所二出ル時ノ事ナリ」と書き加える必要があったと言うことになります。
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『慶長国絵図』「江戸幕府撰慶長国絵図集成付江戸初期日本総図」(柏書房)に収録
※阪神間では尼崎市立図書館にのみあり
『正保国絵図』「国絵図の世界」(柏書房)に収録
『広西両宮絵図』
阪神間の街道を歩く
『元禄国絵図』
国立公文書館デジタルアーカイブ
『中国行程記』西宮市立郷土資料館に西宮附近部分の写しあり
『名所方角鈔』和歌山県立図書館所蔵
『行嚢抄』(『武庫の川千鳥』に引用)
『武庫の川千鳥』吉井良秀刊
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2011/03/29 21:21:50
従来、西国経由が西宮経由になった時期を推定するのに利用できる資料は2点しかありませんでした。
1つは西宮市立郷土資料館所蔵の「摂津国図」です。これは、江戸幕府成立直後の慶長9年に幕府が発した命令により作成されたもので、一般には『慶長国絵図』と呼ばれ、慶長10年(1605年)の年号記載があります。幕府に提出された正本は残っておらず、今見ることが出来るのは当地に残った写しです。
太い線で描かれた街道が西宮を経由していないのが分かります。西宮の西に「宿火村」と誤記された「宿久村(しゅくむら)」がありますが、これについては次回以降に検証します。
利用できたもう1点の資料は、広田神社所蔵の『広西両宮絵図』です。こちらは、広田神社西宮神社と関係町村の庄屋が、貞享3年(1686年)に作成して大阪奉行所に提出したものの控図です。
広田から南下して西宮を通る、一般に知られる西国街道の道筋が太く描かれています。
『慶長国絵図』が慶長10年(1605年)、『広西両宮絵図』は貞享3年(1686年)ですので、この2点の資料を根拠に1605年から1686年の80年の間に西宮経由に変わったと言うのが従来の定説でした。
国絵図で言えば、『広西両宮絵図』より更に16年後の元禄15年(1702年)に作成された『元禄国絵図』でも西宮経由に描かれています。
実は、『慶長国絵図』と『広西両宮絵図』の中間、正保年間にも幕府の命により『正保国絵図』が作成されていたのですが、幕府所蔵の原本は現存せず、残った控図には西宮附近が欠けていたために利用できませんでした。ところが、2005年、国絵図研究会により西宮附近を含む国立公文書館所蔵の写しが公表されました。
同会編『国絵図の世界』に写真が掲載されています。かなり縮小されていて不鮮明ですが、既に西国街道が西宮経由になっていることは読み取ることができます。
『正保国絵図』の作成は正保2年(1645年)ころですので、西宮経由になった時期は従来より約40年早く、
「1605年から1645年の約40年間のことであった」と訂正すべきだと考えます。
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西宮経由になった時期について、別の記録もあります。
それは、既に紹介した『中国行程記』の打出春日町の道標に添えられた解説文です。
「此棒杭ニ中山道ト有、中山寺ハ船所観音有、正徳年中迄ハ山崎海道也、近道ニテ中村江通リケル、追々道損田地ニ成、今近道無シ」(読みやすいよう句点を書き加えました)
【意味】この道標に「中山道」とある。中山道には船所観音がある。この道は正徳年間までは山崎街道(=西国街道)であった。西宮の中村に通じる近道であったが、やがて道は衰退して田畑となったために、今はもうこの近道は無い。 |
すなわち、先程推定した1605年から1645年の約40年間より70年も後、正徳年間(1711年〜1716年)に西宮経由になったことになります。正徳年間のはるか前から街道は西宮経由になっていたのは明らかですが、なにぶん『中国行程記』は綿密な調査のもとに作成されて藩主に提出した言わば藩内の公文書ですから、この正徳年間と言う記述は、国絵図などとは別の、なんらかの公文書によるものと考えられます。
そこで該当すると思われるのが、正徳元年(1711年)に行われた駅法の改正です。このとき、改めて宿駅に関する取り決めが定められました。『中国行程記』の作者は、この改正時にはじめて西宮宿が公認されたと考えて正徳年間と言う記述になった可能性があります。
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2011/03/26 15:37:39
大阪を出て西宮で西国街道と合流するのが江戸時代の中国路に由来する中国街道です。西国街道が西宮経由になった後は与古道町で西国街道に合流して中国街道は終わりますが、それ以前は西宮を通って御茶屋所町で旧西国街道に合流するまでが旧中国街道でした。
なお、現在では京都発の街道を西国街道、大阪発の方を中国街道と使い分けることが定着していますが、かつては中国街道も西国街道と呼ぶことがありましたので、古老の話や過去の文献に接する際は注意が必要です。
43号線から斜めに分かれるのが旧街道です。
すぐ西で一旦北に曲がってから再び西に向きを変えますが、今ではこの部分は道が失われています。
鳴尾御影線が建石筋に突き当たる付近に斜めの路地があります。これが旧中国街道です。かろうじて自転車が通り抜けることが出来る10mほどの路地の先は普通の道になっています。
夙川堤にさしかかるところが、かつての西宮の西墓で、旧街道はその中を通っていたようです。
西墓は明治時代に廃止されましたが、夙川堤上にその名残りと思われる石造物がいくつか残っています。
ここで夙川を渡ります。
国道2号線から南東に向って斜めに旧中国街道が残っています。現在では写真左の空き地にマンションが建っているので、一旦行きすぎてから振り返らないと見落としてしまいます。
大正15年、国道2号線建設中の写真で、夙川堤上から西に向って撮影されています。左端から旧中国街道が国道へ斜めに突き当たっている様子がよく分かります。
旧西国街道との合流点は、一般の地図上では国道建設時に吸収されてしまったようになっていますが、昭和10年ころに発行された『西宮町土地宝典』を見ると、掬水荘があった敷地内にわずかに旧道が残っていて、完全消滅したわけではなかったことが分かります。
なお、旧街道が西宮と御茶屋所を斜めにほぼ一直線に結んでいたと推定した根拠は、御茶屋所町にあった道標の記述や和田岬へのご神幸への道として必要な道であったこと以外に、この道が旧街道であると言う伝承が残っていたと思われ、幕末生まれの吉井良秀氏が昭和3年刊行の『老の思い出』で次のように書いておられること等が挙げられます。
西墓は夙川の東堤で東面の緩斜地に有つた、丁度大昔の西国街道に當る邊で僅の地で有つた。
この後、補足として、「西宮経由になった時期」と「森具と夙川の移り変わり」「武庫郡と兎原郡の境界線」について書く予定です。
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夙川と国道2号線が交わるところから少し南側の東側の土手になぜあれだけの石造物が固まってあるのかの謎が解けました。震災のあとに一つ増えた子供の像のことはよくわかっています。私も少ないながらこの像の寄進者の一人でもありますので・・・
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/03/26 23:31:05
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「西墓は明治時代に…」とのことですが、このページに
(http://esd.leaf.or.jp/leftsidebar/jidai.html)
満地谷墓地は昭和4年に出来るとあります。どうなんでしょうか?
[ imamura ] 2011/03/28 20:07:07
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★西宮芦屋研究所員さん。
私も、あそこが墓地であることを知るまでは不思議に思っていました。
★akaruさん。
ご指摘ありがとうございます。
満池谷に、と言うのは私の勘違いでした。訂正させていただきます。
いずれにせよ、明治42年測量の地形図にはすでに墓地はなく、それ以前に廃止されていたのは間違いないようです。
今津以外の墓地の調査までは手が回りませんので、これ以上のことはギブアップします。
めんぼくございません。
[ 今津っ子 ] 2011/03/28 22:54:15
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お世話になっております。この廃墓地のような石造物群は僕も、以前から不思議に思っていました。これについて「西墓」であると明確に指摘されたのはWeb上では今津っ子さんしかいらっしゃらないのではないかと思います。ご報告遅れましたが、引用させていただきました。いつもありがとうございます。
[ 凛太郎 ] 2011/12/18 8:02:16
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★凛太郎さん。
今津の大墓、小墓、津門墓などは跡形もなく満地谷に移転しましたが、西墓の撤去は明治時代のことですのでこのような形で残ったのかも知れませんね。
[ 今津っ子 ] 2011/12/19 14:41:50
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