2011/03/23 21:05:02
御茶屋所町の三叉路から打出までの区間は、現在では完全に道が消滅しています。
旧森具村集落内は震災までは町並みと共に道が残っていましたが、復興区画整理の結果今のようになりました。
旧集落西端から打出までは戦前の耕地整理で碁盤の目状に道が整備され、地図上では旧道は消滅したことになっていますが、この辺りが宅地化される以前、まだ田畑であったころはあぜ道や田畑の境目として痕跡が残っていたようです。
戦後まもなく米軍が撮影した写真を見ると、旧道の形状と完全に一致する筋が写っていますのでそのように推測します。
打出春日町で、旧西国街道はいわゆる西国街道に合流します。
合流する旧三叉路の北西角に2基の道標が残っています。
1基は写真右端の背の低い角柱で、「左中山道/右西宮道」とあります。
もう1基はひときわ大きいお地蔵さんです。左側面に「左/甲山/荒神/中山/妙見山/道」と、参詣の多かった寺社が列挙されています。
御茶屋所町の道標は、現在の阪神電車線の南に沿って西宮と打出を結ぶ新街道が開通する以前に建てられたと考えられますので江戸時代初期より以前の可能性がありますが、この打出春日町の道標は江戸初期以降、新街道開通後の建立と言うことになります。
江戸時代後期、萩藩は参勤交代をする藩主の旅の友として『中国行程記』と呼ばれる萩から江戸までの詳細な絵図を作成しました。西宮付近の部分にこの三叉路とその北東角に道標が描かれていています。
この道標が現存するものと同一かどうか不明ですが、解説文が添えられています。
「此棒杭ニ中山道ト有、中山寺ハ船所観音有、正徳年中迄ハ山崎海道也、近道ニテ中村江通リケル、追々道損田地ニ成、今近道無シ」(読みやすいよう句点を書き加えました)
この道標に「中山道」とある。中山道には船所観音がある。この道は正徳年間(1711年〜1716年)までは山崎街道(=西国街道)であった。西宮の中村に通じる近道であったが、やがて道は衰退して田畑となったために、今はもうこの近道は無い。 |
このように、この道が旧西国街道であったことが明記されています。
「中村に通じる」とありますが、旧街道は中村の村域をかすめた後に広田村に通じますので、当時の習慣として必ずしも中村の集落に通じると意味ではなく、「中村村域を通ってから広田に通じる」と実質的には同義であると言えます。
「今はこの近道は無い」とありますが、既に述べたように旧道は部分的にあぜ道同然になってしまっていましたので、街道としては機能していない程度の意味合いかと思われます。
「正徳年間」の部分は検討の余地がありますので、後で述べます。
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道標は貴重な文化財産ですね。大切にしたいものです。
[ imamura ] 2011/03/24 0:25:53
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★akaruさん。
そうですね。西宮市内でもこの2〜30年でいくつもの道標が失われました。残念です。
[ 今津っ子 ] 2011/03/25 16:03:24
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2011/03/23 1:09:07
旧西国街道はJR線の南で夙川を渡り、お地蔵さんのところに出たと考えられます。渇水時には今でもここを歩いて渡ることができます。
明治時代にはここに小さな橋が架かっていていました。
明治32年生まれで森具から越水の大社小学校に通っていた南野茂三郎さんが、昭和32年に「郷土を語る古老座談会」で次のように語っています。
大社学校は越水の城址にあったわけですが、先程先生の言われたように夙川のお地蔵さんのある、あの下を通って、当時細い橋がかけてあったのですが、それは大雨が降りゃ流されてしまうので、通学に非常に困ったんです。 |
お地蔵さんから夙川の堤を下ります。
大手前大学の手前で南に向きを変えます。
国道2号線に突き当たります。この三叉路の東の角は震災前は掬水荘と言うアパートでした。
その敷地内に、現在は所在不明ですが、震災前まで「左中やま/すぐ(=まっすぐ)西宮」と記された道標がありました。
旧西国街道は街道としては廃れたものの、神戸方面から中山寺に参詣する人には利用され続けたようで、「左中やま」はその案内になります。
一方、「すぐ西宮」の意味は今ではわかりにくいと思いますが、ここから西宮神社の方に向かう古い街道がありましたので、そのことを指します。(この街道についてはまた後で詳しく説明します)
旧西国街道はここから西に向い、旧森具集落内で一旦南下してから再び西進して打出へと続きます。
つまりこの三叉路は、京都方面から来た旧西国街道と西宮神社の方から来た古い街道が合流し、神戸方面に向う重要ポイントだったことになります。
そのことを示す江戸時代の記録があります。
貞享3年(1686年)に作成された『広西両宮絵図』で、この三叉路沿いの一角が広田神社の支配地として黄色に塗られています。
その部分を拡大してみます。
「御茶屋所」の名前と共に、最大部で東西30間(118m)南北29間(114m)であったこと記載されており、さらに「御茶屋所」と言う名前について、
古昔廣田明神南宮兵庫和田之御崎ニ御神幸之時此所ニテ馬揃仕候只今者御茶屋所ト申候 |
とあります。
つまり、昔、兵庫の和田岬へ馬を使って陸路で神幸していた頃は、広田神社と広田神社南宮(今も西宮神社内にあり)を出たのちここで合流して列を整えたものだが、今はここは御茶屋所と呼んでいる、と言う主旨です。現在の御茶屋所町と言う町名はこれに由来します。
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興味深く拝見させていただいてます。
掬水荘の敷地に立っていたという道標の写真ですが、
これまでは堀内さんの撮影された、空き地に立っているのしか見たことはありません。
今回掲載された写真は、地面の様子から見て建物内のようですが、今津っ子さんが撮影されたものでしょうか、それともどこかに掲載されていたものでしょうか、
撮影時期が判ればそれもご教示いただければ幸いです。
[ 山爺 ] 2011/03/23 10:41:30
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今津っ子さん 日頃、ぼやっと歩いていても、突然、古いお地蔵さんや石碑が目に入って、「なぜ?こんなところに」と思うことがしばしばあります。
市内の旧西国街道の様子と、その場所になぜこれらがあったのかということがわかりました。
近いうちにこの地図を持って歩いてみます。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/03/23 18:25:36
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★山爺さん。
写真のクレジットが漏れていたので追記させていただきました。
撮影は『西宮の道標』の著者、故宮崎延光氏です。この道標の写真は「宮っ子」創刊号にも乗っていますが、こちらも室内に置かれた状態で撮影されています。
堀内さんの写真は見たことがありません。立っている状態の写真ならとても貴重なショットですね。どこで見ることができるか是非ご教示ください。
★西宮芦屋研究所員さん。
この街道は今では途切れ途切れなので、一気に通して歩くより、残っている部分の近くに行かれた時に、その付近を歩いて見るのがいいでしょうね。
[ 今津っ子 ] 2011/03/23 20:01:07
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ありがとうございました。
「西宮の道標」の写真は、詳しく重ねてみないとはっきりとしたことは言えませんが、この写真の道標部分を
切り抜いたようにも見えますね。それとこれ非常に不思議ですね。なぜ建物内に取り込んであるのでしょう。普通なら庭か玄関先に置くでしょうに。もともとの場所から建物内に移動させたのか、動かせなかったので、結果的に取り込んだようになったのか?経緯も知りたいですね。
空き地に立っている写真ですが、基本的なミスをしていまして出典を書いたものが見当たりません。ただ堀内冷(ただしくはサンズイです)さんが何かの定期刊行物の連載に書かれているもので「西宮カメラメモ?」の記事です。このままでは私も困りますので探して判ればお知らせします。
[ 山爺 ] 2011/03/26 22:26:09
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★山爺さん。
掬水荘の道標については、事情をご存じの方がおられないか捜しているですが、まだ見つかっていません。
道標の行方など、分からないことだらけですが、今後も調査を続けたいと思っています。
[ 今津っ子 ] 2011/03/28 22:44:13
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私が見た写真の出典が判りましたのでお知らせします。
西宮文化協会 発行
「西宮文化」 第7号 昭和40年3月
の13頁に掲載されています。
堀内冷(正しくはサンズイ)さんが連載で書かれて
いる西宮カメラメモの第7回です。
残念ながらこの写真がいつ頃撮影されたものなのか、
堀内さんご自身が撮影されたものなのか、
(おそらく何も付記がないのでご自身で撮影された
ものでないかとは思いますが)
別の何かに掲載されていたものなのかはわかりません。
この本は西宮市立中央図書館の書庫にあります。
何巻分かが合巻されていますが端末で照会されれば
出てきます。禁帯出ですが館内で見ることが出来ます。
一度ご覧下さい。上記の宮崎さんの写真同様、はっきりとしたきれいな写真です。
[ 山爺 ] 2011/04/09 18:22:13
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★山爺さん。
貴重な情報ありがとうございます。
さっそく閲覧しに行こうと思います。
なにぶん、どこにどのような写真や資料があるかは手探りですので、このような情報はとても助かります。
今後とも何かお気づきのことがあればお知らせ下さるようお願いします。
[ 今津っ子 ] 2011/04/10 6:37:34
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★山爺さん。
西宮文化の道標写真を図書館で確認しました。
郷土資料館の合田氏と一緒に検討しましたが、更地のような所に建てられていること、後ろに夙川の並木が写っていること等の点から見て、恐らく掬水荘建設工事中に土中に埋まっている道標を発見した直後の撮影ではないかと推測されます。
そうであれば、宮崎氏の調査より前、この道標を写した最初の写真と言うことになります。
貴重な情報ありがとうございました。
[ 今津っ子 ] 2011/04/16 22:01:47
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2011/03/20 22:18:26
八丁畷を少し南に下った後、東に向きを変えますが、少し先で南西に曲がる部分が宅地化されていて旧道を進むことができません。
1本道を隔てて再び道が残っています。
西田公園のある丘陵にさしかかったところで道は途絶えます。
公園内には旧街道の痕跡も残っていません。すべり台の上あたりを旧道が通っていました。
公園内には「旧西国街道跡」の石碑が建てられています。
今では旧西国街道の存在がほとんど知られていませんので、何故こんなところに西国街道の碑があるのかいぶかる人も多いようです。また、市の公園緑地課にこの石碑建立のいきさつの記録が残っていないため、その扱いに困っているのが現状です。
西田公園の地図に、旧街道の推定道筋を描いてみました。
元々は丘陵の中腹を通っていましたが、明治時代に南端でがけ崩れがあったようで、丘陵のスソを通るルートに変更されました。崖崩れの跡は今も残っています。
西田公園は近年新しく整備された公園で、それ以前は小さな林と畑でした。そのころの写真が「グラフにしのみや'80」に掲載されています。
この先、西田公園から夙川まで、旧街道は完全に消滅しています。
この区間が完全消滅したのは、阪急とJRの間に地域が大正中頃に耕地整理されたためです。
西田公園の西を南北に通る、今は万葉苑筋と呼ばれる道から夙川までの間は明治時代の地形図にも描かれておらず、かつては道筋の復元が困難でした。古老の証言によるとこの区間はあぜ道のように細かったったそうで、このために地形図に記載されなかったと思われます。
地形図のように正確ではありませんが、この区間の旧街道が描かれた地図が2枚残っています。
1枚は明治42年に発行された市販の市街図「西宮町図」です。これは、地形図を除けば、現存する明治時代最古の西宮町地図にあたります。
もう一枚は、市役所が製作した「西宮町全図」で、手書きの地番図です。
これら2枚の地図によると万葉苑筋のところで道が欠けてますが、これはこの付近で3本の道が交差するため、通行量の少ない旧西国街道がこの部分だけ廃れてしまったようです。地番から見て、明治初めには既にこのような形になっていたと推測します。
ちなみに、この旧西国街道は江戸時代には既に街道として役目を終えていましたが、例えば今回紹介した越水から夙川方面に向う道は「兵庫道」と呼ばれ、便利な短絡路として利用されていたようです。
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西田公園の西国街道碑はいつ誰が建てたかわからないと
聞いた事があるような・・・。
施主(建てた人の名前)もわからず、まるっきりのウソでは
ないにしても扱いに困るみたいですね。
グラフにしのみやの写真は旧道がよく分かりますね!
[ にゃんこ ] 2011/03/21 13:57:19
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★にゃんこさん。
現在の公園緑地課に石碑設置当時のいきさつを知る人はもう残っていませんので、何故こんなところに西国街道の石碑があるのかと言う問い合わせに答えることができず困っておられるのは確かです。
このあたりを旧西国街道を通っていたことは、この地区の古老の間では広く知れ渡っていた事実ですので、恐らく誰かが当時の公園整備時の関係者に働きかけて建ててもらったのでしょう。
生い立ちはどうであれ、正しい位置に正しい石碑が建てられたことは喜ばしい限りだと思っています。
ただ、誤解に基づく批判に抗しきれずに撤去されてしまう可能性もあり、ちょっと心配です。
[ 今津っ子 ] 2011/03/21 21:30:11
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2011/03/20 3:19:02
一般に知られている西国街道は、京都方面から髭の渡しで武庫川を越え、国道176号線とほぼ平行に西南に進んで広田で南に向きを変え、西宮本町で再び東に進んで西宮神社の赤門に突当り、神社の南に沿って打出方面に向います。
しかしこれは、江戸時代に入って西宮が宿場として発達してきたのに伴ってわざわざ遠回りをするようになった結果で、江戸時代初期まで西国街道は西宮を通らず最短距離を直行していました。
一般の西国街道に関しては数えきれないくらい多くのレポートが発表されていますが、旧西国街道部分については、詳細な道筋が従来未解明であったこともあって一般の方々の目にふれるような形で全容が報告されたことがありません。そこで、詳細な道筋がほぼ判明したのを機に旧西国街道を歩いてみました。
西国街道が南に向きを変える三叉路付近は、耕地整理と宅地化の結果、道は完全に消失しています。
大正12年測量の地図によると、一帯はまだ一面の田畑で、旧西国街道はあぜ道に近い細い道であったことが分かります。
旧街道は、広田神社参道の馬場先を通ります。
現在の広田神社は駅や繁華街から少し離れ、交通の便がよくありませんが、当時は街道沿いの良い立地だったことが分かります。
広田神社から先は今も道が残っているので、ここから歩いて見ます。
広田神社の馬場先です。北に向って松並木の参道が続きます。
まだ神社から東の道が残っていた頃の写真です。写真右に向って細い道が写っています。
広田神社から西へ越水までの区間は、かなり道が広くなっています。
今では宅地化されたこの付近が、まだ一面の田畑であったころの写真が残っています。西から東に向って撮影されています。写真奥に見える並木が広田神社参道です。
旧越水村の集落に入ると、多くの集落内の道がそうであるように、道は少し狭く、微妙にくねくねとしています。
道は集落中央で突当ります。
ここで一旦南に回り込みます。
この南北の道は札場筋の北端で、かつては八丁畷と言い、戦国時代に越水城があった越水と西宮を結ぶために整備された道で、西宮側では越水道とも呼ばれていました。
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今津っ子さん 南郷町の友人が、自宅の前の道が「旧西国街道」だったと言っていたのを「なんで、ここが?」と思って聞いていましたが、次回にはその答えが出てきそうですか。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2011/03/20 13:33:47
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★西宮芦屋研究所員さん。
現在の南郷町は通っていませんでしたが、近いです。
次回、地図を掲載します。
[ 今津っ子 ] 2011/03/20 14:49:31
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2010/12/03 20:30:00
去年の秋と今年の春に、西宮山口から神戸市有野を通って北区屏風あたりまで歩きました。何故そんなコースなのかと言うと、江戸時代は参勤交替の大名行列も通る街道だったからです。
歴史を扱った各地のガイドブック等を見ても、まずこの街道には触れられていませんし、まして歩いた方の報告も見かけませんので、自分の足で確認しに行ってきました。
スタートは山口の公智神社参道で、鳥居手前で右に曲がります。
切り通しを上って行きます。
しばらく進むと、神戸市に入り、有野の町並みが見えてきます。
更に進むと、森の中に入っていきます。かつては、右の森の中にお城があったそうです。
森の中の道無き道を進みます。なにぶん一人で歩くには危険なので昨年秋は断念し、今年の春は吹田方面で道標調査をしておられる点と点さんにお願いして同行していただき、ようやく走破することができました。
点と点さんのブログはこちら↓
やがて失われる道標;その歴史を刻んで伝える
しばらく田園地帯を歩くと、やがて広い県道に出ます。
ところどころに、江戸時代に建立された道標が残っています。
道は更に三木方面に続きますが、なにぶんこの辺りは最終バスが夕方の5時前なので、この辺りで引き返しました。
簡単に紹介しましたが、詳しいレポートは↓こちらにありますので、興味を持たれた方は覗いてみてください。
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