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「寺江亭」がどこにあって、今はどうなっているのかを調べます。
前回、京から見て大物のすぐ手前であることは述べましたが、問題はその距離です。

治承3年(1179年)11月、前太政大臣の藤原忠雅(ただまさ)の厳島神社参詣の様子を、弟の忠親(ただちか)がお供の物から聞いて自身の日記『山槐記(さんかいき)』に記録していますが、その中に距離のヒントがあります。忠雅は、寺江亭と同じ河尻寺江にあった山城法眼の山荘に立ち寄っています。翌日、尼崎で上陸して車に乗ったのですが、その項に「尼崎まで寺江から廿町ばかり」とあります。当時の尼崎は入江をはさんで大物の対岸のことで、そこから京の方向に川を約2キロ遡ったところと言うと、現在の杭瀬や今福あたりになります。



ここまでは文字記録だけで分かるのですが、初めて現地に赴いて調査をしたのが西宮神社の吉井良秀氏で、大正11年のことでした。その結果、「横渡し」(大正末ころ廃止)付近が寺江亭の故地であるという結論に達しました。調査当時、河川敷はちょうど渡し付近が「神戸醋酸会社」(後に塩野義が買収)の工場になっていましたが、他はまだまだ葦などの茂る荒れ地だったようです。

『兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告第十六号』や『寺江亭趾顕彰に就いて』に調査報告が載って、その要点は次の通りです。


1.私の対岸に至る迄、はば十四五間に渡り、川底に大小の石が埋もれているといわれ。実際に昭和15年に潜水夫が潜ったところ、大石と礎石を発見し、礎石の方は回収した。

2.この石のあるところは「テンショ」と言うものの跡であると言い伝えられている。この石を一個でも持ち帰れば禍があるか病気を煩うと言い伝えられ、住民に恐れられている。「テンショ」は「殿所」ではないかと推定される。

3.ここから南の浜は「ゴジョウダイ浜」と言われている。寺江亭の持ち主である藤原邦綱は「五条大納言」呼ばれていたから、おそらく「ゴジョウダイ浜」は「五条殿浜」のことであろうと推測される。



まだ開発がまったく行なわれていない明治19年の様子です。



開発や宅地化が始まった大正末です。



では歩いてみましょう。

2号線から旧堤上の道を進むと、塩野義製薬の正門に着きます。この少し北を右に曲って河川敷の小径を進むと渡しです。



2号線に戻り、左門殿川の堤防を北に進みます。「シオノギ」の文字が見える大きな建物のあたりが「横渡し」つまり「寺江亭」趾です。



対岸の佃島を望みます。横渡しはマンション群のうち右端の棟の中央付近に渡ります。つまり寺江亭趾です。



昭和15年、吉井良秀、良尚氏の呼び掛けに応じ、塩野義商店(現在の塩野義製薬)は敷地内に寺江亭趾の石碑を建立しました。



現在は敷地外に移設されています。





なお、吉井良秀氏は名称としては一貫して「寺江山庄」の方を用いていましたが、良尚氏の代になり、逆に「寺江亭」の方が使われるようになりました。このため、尼崎市長名で「寺江山庄趾」を「寺江亭趾」に改めるように通達まで出ています。

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清盛の福原遷都を語るのに、藤原邦綱(くにつな)の「寺江亭」の話を避けて通る事はできません。

藤原邦綱は下級官吏の家系でありながら、摂関家藤原忠通(ただみち)の家司(家来)として頭角をあらわし、諸国の受領(いわゆる長官)を勤めるうちに貯えた豊富な財力を背景に天皇家、摂関家、平家などの武家と親密な関係を築き、異例な出世をとげて大納言にまで登り詰めました。大河ドラマにはまもなく登場の予定で、岡本信人が演じます。



邦綱は各地に多くの邸宅を所有しており、そのうち京にあった土御門東洞院第および五条第は、六条・高倉・安徳天皇の里内裏(さとだいり、いわゆる御所)に使用されましたので、邦綱自身も「五条大納言」あるいは「土御門大納言」などと呼ばれていました。福原や宇治などにも邸宅を持っていましたが、何より注目すべきは大物近くにあった「寺江亭」です。なお、当時の記録では「寺江山庄(=山荘)」と書かれた例の方が多いのですが、現在では、「寺江亭」の方が通用していますので、ここでも「寺江亭」と呼ぶことにします。

この寺江亭は単に邦綱の別荘であるだけではなく、天皇家や摂関家が京から淀川を船で下って来て、陸路あるいは海路で福原や厳島へ向かう際の宿泊所または休憩所として提供されました。

寺江亭がはじめて記録に表れるのは治承3年(1179年)で、素徳上皇(すとくじょうこう)の皇太后である皇嘉門院(こうかもんいん)の天王寺参詣の宿所として寺江亭を使ったこと、また藤原邦綱がその準備のため前日の3月30日に京を立った、と言う『山槐記』の記事です。そして高倉上皇の厳島御幸(ごこう、天皇以外の天皇家の外出)、安徳天皇他の福原遷都などに利用されたのち、治承4年(1180年)11月、京への還都に際して再び安徳天皇他が立ち寄ったのを最後に歴史から消えます。その間わずか2年弱のことでした。

寺江亭のあった場所は、神崎川または左門殿川沿いで、京から見て大物のすぐ手前です。その跡地と推定される地には「寺江亭跡」の石碑が建てられています。



寺江亭がどんな施設であったかについては、高倉上皇の厳島御幸に同行した源通親(みちちか)が次のように記録しています。(現代文に直しました)

河尻の寺江と言う所に着く。そこには前の大納言である邦綱が作った別荘があり、舟にのったまま敷地内に入って、釣殿(つりどの)から直接建物に上がる。障子には唐や大和の風景が描いてある。厩には葦毛の馬が二頭おり、めずらしい鞍がかけてある。


建物は当然ながら寝殿造りであると考えられるが、まずなにより川から舟が直接入れる構造であったことが目を引きます。当時、京の南、鳥羽離宮にもそのような施設がありました。

BR>『よみがえる平安』より

場所は名神の京都南インターの南、現在の城南宮付近にあった広大な地域でした。


『京都千二百年』より

寝殿造りとは次のような施設です。


『兵庫県史第二巻』より

当時の絵巻『法然上人行状絵図』に寝殿造りの建物が描かれています。ちなみに、この建物は後で紹介する九条兼実の「月輪殿(つきのわでん)」です。


『法然上人行状絵図』より

図の右端部分を拡大してみます。


『法然上人行状絵図』より

水上に建物の一部が突き出ています。これが「釣殿」です。直接舟に乗り移れる構造になっているのがよく分かります。

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川船からの上陸地点は、福原や西国方面に向かう場合、当時はほとんど大物でした。
ここで輿(みこし)または馬や牛車に乗り換えました。
と言っても、船着き場に業者が常駐しているわけではありませんので、自前で輿や馬を用意できない場合、事前に手配しておく必要がありました。

では、大物のどの辺りに上陸したかを見てみます。

まず江戸時代初期の尼崎城築城の話しです。阪神尼崎駅大物駅の中間、国道43号線沿い、現在の明城小学校付近に尼崎城がありましたが、明治維新直後に跡形も無く解体されてしまい、世に知られない結果となってしまいました。幸い、解体直前に撮影された数枚の写真が残っています。



この付近の詳しい地図は、この尼崎城築城以後のものしかありません。
この古地図を元に、当時の川の様子を現在の地図に重ねてみます。



築城前の状態を推測すると、このようになります。



江戸時代、大物橋北詰の西側が大物の船着場でした。『摂津名所図会』にも描かれています。



大物川は埋め立てられ、大物橋も存在しません。『摂津名所図会』とほぼ同じ角度になるよう、43号線交差点の陸橋から現在の様子を撮ってみました。中央の黒い車が信号待ちしている所が旧大物橋です。



「大物橋跡」の石碑もあります。



ちなみに、この大物橋は江戸時代には大名行列の通る中国街道にかかる橋であり、また、塚口、伊丹、池田方面に向かう人も皆この橋を渡りましたので、さぞかしい賑やかだったことでしょう。

近年のこのすぐ北で大物遺跡の発掘調査が行われ、清盛の時代と重なる遺物が多数発見されました。

地形の変化もあり、今となっては判断が難しいのですが、ほぼこの辺りであっただろうと考えてよいのではないでしょうか。

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関係ない話で恐縮ですが、僕も昔、大物橋について同じ陸橋の上から写真を撮ったことがありました。上画像を見て思い出しました。
その際には、摂津名所図会のことは全く意識していませんでした。偶然にもいいアングルだったのだな(笑)。
今シリーズについては、本当に楽しく拝見させていただいています。先が楽しみです。大河は見ていなくて申し訳ないのですが(汗
[ 凛太郎 ] 2012/07/04 6:29:48 [ 削除 ]
★凛太郎さん。
ほとんどみなさん見ておられないので、お心遣い無きように。
ようやく大物まで来ました。
まもなく西宮と今津です。
[ 今津っ子 ] 2012/07/06 9:04:28 [ 削除 ]
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前回はイケメンと個性豊かな男優ばかりで少しむさくるしかったので、今回は美女特集を。

まずは、「常磐御前(ときわごぜん)」。

源義朝の側室として数人の子を設け、平治の乱で義朝が死んだ後、一条能成に嫁いで再び数人の子を産んでいます。
ただ、義朝の死後、義朝の子供達助命のため、平清盛の妾になったと伝えられています。

言い伝えてによると、最初、近衛天皇の中宮である九条院の雑仕女に召し抱えられた際、千人の中から選ばれた絶世の美事だったそうです。

この美女を演じるのは、今世紀一(個人的思い入れですが)の美女「武井咲(たけいえみ)」です。テレビCMや週刊誌の表紙、街の宣伝ポスターなど、彼女を見ない日はありません。武井咲自身も約10万人の応募者のある「国民的美少女コンテスト」で見い出されたわけですから、この役にピッタシです。

人間関係を整理しておきます。



当時の肖像画は望むべくもありませんので、後世の絵師のイメージで描かれたものを2枚紹介します。
いずれも義経とのかかわりをテーマにしています。



江戸時代の浮世絵です、常磐御前の生涯を江戸時代の一般女性に置き換えています。



こちらは、「常磐御前と牛若丸雪の別れ図」と題されています。

もう一人の美女は、1986年、三代目スケバン刑事として大ブレークした「浅香唯(あさかゆい)」です。
現在42才、とてもそうは見えません。

大河の作者は、この信西の女房にあまり興味ないのでしょうか、それとも浅香唯になにか恨みでもありのでしょか、ヒドイ扱いを受けています。

まず、登場人物紹介の中に浅香唯の姿はありません。したがって衣装を着た浅香唯のスチール写真は存在しません。清盛の母として創作された人物で、放送第1回だけで死んでしまった舞子役の吹石一恵はいまだに写真が掲載されているのと比べエライ違いです。浅香唯が演じる信西の妻は「藤原朝子(あさこ、ちょうし、ともこ)は今まで3話分に登場して、ちゃんと台詞もあります。まして、7月1日放送分では義朝軍に命を狙われている夫を助けてくれるよう清盛の妻に懇願する重要な役目を果たしています。

もう一点、なぜ信西があのように実権を握り、実質的にナンバーワンに成りえたかがちゃんと描かれていません。
妻朝子は後白河天皇の乳母(めのと)でした。従って、信西は後白河天皇に対して大きな影響力をもっていたわけです。



朝子の肖像が残っていないのは当然として、信西も生前の姿は見ることができません。

7月1日放送分のラストで、信西の首が京の町中でさらされているシーンが流れました。そのいきさつは、「平治物語」と「平治物語絵巻」でも詳しく描かれています。

この「さらす」と言う行為は、いわゆる見せしめの意味ではありません。戦いに勝った武将がもっとも恐れるのは、倒したはずの敵が実は生きていたと言うことです。そのため、首を戦場から届けさせ、本人かどうかを自分の目で確認する必要がありました。そして、「実は〜は生きている」などの噂をたてられないよう、誰でも見られるようにさらす必要があったのでしょう。

現在では考えられない方法ですが、究極の情報公開と言うことになります。

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残念ながらエライことになっています。
まあ、私の周りでも見ている人はほとんどいませんから、そんなもんでしょう。

兵庫県知事が言うように確かに画面が汚いのですが、それ以前に、ストーリーが分かりづらく、しかも脚本家が考えたエピソードがどれも低レベルでつまらないのです。

面白くないらしいと言う噂が広まり、負の連鎖になっています。

全体の流れからすると、これから面白くなるんですと言う人もいますが、たぶんダメでしょう。

理由はいくつかあります。

この半年で知名度の高い俳優は役柄上、すでに死んでしまいました。



代わって、清盛の兄弟や子供達の登場シーンが増えるのですが、それを演じるのは大河を見る世代にとっては無名の新人で、だれがだれかの区別はつかないと思います。名前を知っている、あるいはどこかで見たことがある俳優は何人いますか?



よくもまあ、これだけ顔の似た俳優を集めたものです。

もう一つ問題があります。

元々よく似た名前の人物が多くてややこしかったのですが、清盛の兄弟や子供と言うことはますます名前が似てきます。

清盛 きよもり
頼盛 よりもり
経盛 つねもり
教盛 のりもり
重盛 しげもり
基盛 もともり
宗盛 むねもり
知盛 とももり

「もりもりもり・・」で、今どきの女子の言葉を借りれば「盛り過ぎ〜」、昔のネット用語で言えば「盛大杉」

それはそれ、これはこれで、【マニアック清盛】は続けます。

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本日の笹舟倶楽部
お客様用PCはこの画面出しっぱなしにしておきます。

「俳優分かる、知ってる?」

・・・レポートをお楽しみに
[ 笹舟倶楽部 ] 2012/06/30 8:54:50 [ 削除 ]
笹舟倶楽部マスター、おはようございます!!

ワタシも高い視聴料を収めていますので「NHK大河ドラマ」は毎作欠かさずウオッチしてます。(少し皮肉っぽく…)
この度の「清盛」は、来週はどうなるのかなのワクワク感がちょっと出てこないですね!
俳役は豪華有名どころを使っての収録である事はわかりますが、まあ、制作側からするとこのまま突っ走るしかないのかもしれませんねぇ?!
地元民としては盛り上げようにもこれじゃ「ここら辺がうちの近所よ!」とも人には言い難い感じですわ!

まことに残念です…

[ 電動の乗物屋さん ] 2012/06/30 10:31:34 [ 削除 ]
わたしも始めは見てましたが、もうついて行けなくなりました。いつもなら段々面白くなるのですが、今回は段々わからなくなってしまって。これは脚本が悪いと思いますね。
[ imamura ] 2012/06/30 11:26:30 [ 削除 ]
非常に明確な分析だと思います。まだ、見てはいますが歴史に興味がない人はだんだん離れていくでしょうね。これからも見続ける前に、イケメンタレント名鑑でもみて勉強する必要があるかも知れません。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2012/07/01 11:18:02 [ 削除 ]
★笹舟倶楽部さん。
正解の発表です。
平頼盛 よりもり 清盛の異母弟 西島隆弘 25歳
平経盛 つねもり 清盛の異母弟 駿河太郎 34歳
平教盛 のりもり 清盛の異母弟 鈴之助  28歳
平重盛 しげもり 清盛の嫡子  窪田正孝 23歳
平基盛 もともり 清盛の嫡子  渡部豪太 26歳
源頼朝 よりとも (少年時代) 中川大志
何が何だか、わっからないのよ(植木等風に)
[ 今津っ子 ] 2012/07/02 5:42:05 [ 削除 ]
★電動の乗物屋さん
やっぱり本が悪いです。
図書館で「平家物語」とかその辺の本を読み、歴史事典などでちょちょいと調べ、あとは話をデッチあげてしまえーーーー!!!
そんな感じです。
平家物語、保元物語、平治物語は、少し後に書かれたいわゆる戦記です。
当時の貴族達の日記には人間味豊かなエピソードがいっぱい載っています。
やっぱり、人が描けていないと面白く無いのは当然でしょう。
[ 今津っ子 ] 2012/07/02 5:42:39 [ 削除 ]
★imamuraさん。
御苦労さまです。
このブログでも、理解の助けとなるような情報を提供していきますので、もう少しがんばって下さい。
[ 今津っ子 ] 2012/07/02 5:43:10 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所員
本もそうですが、キャスティングもおかしいと思います。
今回紹介したイケメンたちをよく見て下さい。
役者さんの実年令を書いておきました。
一世代年令が離れているはずの兄弟と息子を同じ世代の人が演じるわけです。
これでは、だれがだれだか分からなくても当然。
こまったもんです。
[ 今津っ子 ] 2012/07/02 5:43:38 [ 削除 ]
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京から福原へのもう一つの方法は船の利用です。

まず京から淀川を下ります。

江戸時代、いわゆる三十石船の乗り場は伏見でしたが、平安時代は地形が異なり、伏見からではなく桂川や淀川の川岸から乗船しました。


『法然上人絵伝』より

流罪になった法然上人が、鳥羽から船に乗るところが描かれています。このため、少し質素な船になっていますが、貴族の場合はもっと豪華で、例えば「二瓦三棟造(ふたつがわらみつむねづくり)の船」などが使用されました。当時の絵は残っていませんが、和船研究の第一人者である石井謙治氏が推定するところによると、長さ約30M弱、幅約8M、およそ150石(こく)くらいで、図にすると次のようになります。



淀川を下ってきた船は、天王寺や熊野に行く場合は大川に入って今の八軒屋あたりで上陸しますが、福原や西国に向かう船は江口から神崎川に入って海に向かいます。新淀川(現在は単に淀川と改称)は明治末に新たに開削されたものですので、この頃にはありません。

川船のまま海に進むわけにはいきませんので、神崎川の河口付近、例えば大物辺りで海船に乗り換える必要があります。


『北野天神縁起絵巻』より

菅原道真が太宰府に配流のために乗った海船の出航シーンです。

海船についても、石井謙治氏が推定するところによると、長さ約30M弱、幅約8Mくらいです。



川船から海船に乗り換える必要があると書きましたが、上の2枚の図を見比べていただけるとわかるかと思いますが、一番の違いは水面からの深さにあります。川船は水位が下がった時に川底に乗り上げて座礁しないように船底が浅くて平らである方が便利です。一方、海は波にもまれますから、安定性のある船体が要求されます。

石井謙治氏監修の元に描かれた推定イラストです。



淀川の航行は、当時の船や航行技術でも安全だったようで、山崎道を利用する場合を除き、全員が川船を利用しています。ところが、神崎川河口から福原の最寄りの港である和田の泊(わだのとまり、後の兵庫津)までの海船の利用記録はほとんどありません。

この区間は海難事故の記録も多く、安全性の面で避けられることが多かったようです。

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流石! 今津っ子さん このお話を待っていました。 
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2012/06/28 16:14:06 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所員さん。
だんだん今津に近づいてきました。
[ 今津っ子 ] 2012/06/28 19:03:15 [ 削除 ]
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清盛は、晩年10年以上、福原(現在の神戸市兵庫区荒田町や平野付近)に住みました。その間、たびたび京と福原の間を往復しています。当然、その中間にあたる西宮や今津を通ることもあったはずです。

そこで、当時の公卿たちがどのように福原や更にその西の山陽や九州に向かっていたかを見てみます。

当時の海岸線や川の流れは現在とは相当違っていたことは分かっていますが、当時の詳細な地図は望むべくもありませんので、一部推測を含めて地図を書いてみました。



京福原間の移動には、大きく分けて3つのルートがありました。

まずは京からすべて陸路を利用する場合です。

山崎道を通ります。もっとも、この当時の山崎道は、後の西国街道とはあちこちで道筋が異なっています。

武士や庶民は徒歩または乗馬ですが、皇族や公卿、高僧などは輿(みこし)です。なお、京の町中とその付近は、皇族貴族が頻繁に利用するためか道は整備されていたようで、車(いわゆる牛車)が利用できました。


『石山寺縁起』より

山崎道の場合、通常は鳥羽付近までが車のようですが、山崎まででも可能だったようです。

京から外れると輿になります。


『法然上人絵伝』より

輿による長距離の移動は疲れるのか、皇族貴族の山崎道利用の記録はほとんどありません。

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こんにちは^^
その後お元気に活躍されているようで
安心しています。暑かったり、ひんやりしたりの日々が
続いてますので、お体ご自愛してくださいね!!
[ ショコママ ] 2012/06/14 11:13:48 [ 削除 ]
★ショコママさん。
ここんとこ、暑い日が続いてちょとバテ気味です。
が、今日も仕事に出たついでに甲武橋付近の調査。
帰りに笹船さんでホットコーヒー。
めんぼくない。

[ 今津っ子 ] 2012/06/15 19:32:19 [ 削除 ]
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6月3日放送の大河ドラマ「平清盛」で藤原頼長(よりなが)は亡くなりましたが、その知らせが京に届いたのち、信西(しんぜい)が頼長の屋敷跡を訪ねるシーンがありました。

焼跡で信西は残っていた巻物を見つけます。手にとってみると、それは日記でした。



日記の一部が読まれます。

「仁平(にんぴょう)3年9月17日、わが子兼長(かねなが)、師長(もろなが)は・・・」とわが子二人の昇進を報告したのち、あたかも死を予感したかのように、自分の死後について子供達に言い残します。

この話、いつものように脚本家の創作かと思いきや、この日付けの頼長の日記『台記(たいき)』には、実際に「兼長と師長は、共に八座(=参議)に列せられた。」や「年令の長幼を論ずべからず。」などの記述が見えます。



兼長は保元の乱の結果、出雲へ配流(流罪)され、そのまま21歳の若さで亡くなりましたが、師長は、同じく土佐に配流されながら、8年後に赦されて京に戻り、太政大臣にまで昇進しました。



信西が本当にこのように頼長の屋敷を訪れたかどうかは分かりませんが、前回述べたように、二人の間に心の交流があったことを考えあわせると、ありえない話ではありません。

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保元の乱(ほうげんのらん)の勝者側である信西(しんぜい)と、この乱に破れて命を落とした藤原頼長(よりなが)は、その遥か以前には、同じ学問を志す者同志、心を通わせていました。



信西は藤原通憲(みちのり)として生まれ、7歳で養子に出されて高階通憲(たかしなみちのり)となりました。
やがて、家筋の関係で希望の役職に昇進できないことに絶望し、出家することにしました。

それを聞き付けた藤原頼長は、遁世(出家)を惜しんでいます。
保元の乱の14年前、康治2年(1143年)8月のことです。
そのことは、頼長自身が日記『台記(たいき)』に書き記しています。



5日に手紙を出し、11日には会いに行って共に涙を流しています。

大河ドラマでは、信西が最初から学識豊かで賢明な貴族として描かれているのに反し、頼長は男色の面だけが強調され、少し可哀想な扱い方をされています。

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今後、長く活躍することになる後白河天皇のちの後白河院です。

松田翔太が謎に満ちた笑顔を見せながら好演しています。

守仁親王(後の二条天皇)が皇位を継承することになったが、父親を飛ばしてと言うわけに行かず、ワンポイントとして元々短期間の予定で皇位につきました。ただ、退位後は上皇法皇として長く院政を敷くことになります。



後白河院は歌など芸術面での功績が大きいのですが、それは追々紹介することにして、まずは書をご覧ください。

元暦2年(1185年)、文覚上人が書いた寺規の起請文(神仏への誓いの文書)に5行の宸筆(しんぴつ。天皇の直筆)を書き加え、更に、朱色で手印(サイン代わりの手形)を捺しています。



ちなみに、手印から判断するに、成人男子にしては手は小さいそうです。

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今津っ子 

変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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