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保元の乱(ほうげんのらん)は、皇族、藤原摂関家、平氏、源氏のあらゆるグループが二つに分かれて戦いましたので、破れた側は配流(島流し)で済んだ崇徳院は別として、生き残ることは許されず、大量の死者を出しました。

源頼朝や義経の祖父である為義(ためよし)もその内の一人でした。

日宋貿易や瀬戸内海を舞台にした交易で財力をつけていた平氏に対抗してか、為義は一時、力づくで大物を自分の領地にしていたことがありました。検非違使(警察兼裁判所の長官)の権力を活かしたのかもしれません。、
当時の大物は、瀬戸内海航路の海船と淀川航路の川舟との乗換や積替港として繁栄していて、そのことは大物遺跡から出土した大量の遺物からもわかります。

図は戦国時代の大物です。平安時代に比べて南に島が増えていますが、それでも現在に比べると大物が港に相応しい立地であることが分かると思います。



ちなみに、為義はこの周辺に旅亭(別荘)を持っていたようで、藤原頼長(よりなが)の命により、為義の「摂津旅亭」が焼き払われたとの記録があります。頼長は近辺に富松、野間などの荘園を持っていたので、そのことと関係があるのかも知れません。

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一部誤記、および勘違いによる誤りがありましたので訂正しました。
ご指摘ありがとうございました。

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大河ドラマでは恐らく明後日3日に最期をむかえる頼長(よりなが)です。
兄の忠通(ただみち)が書や歌まど芸術的な面を得意としたのに対して、頼長は学問にはげみ、忠通の子の慈円も「日本題一ノ大学生、和漢ノ才ニ富ム」と評しているほどです。

『台記』(たいき)などの自筆本は残っていませんが、頼長が研究した「因明論疏(いんみょうろんそ)」と言う仏教の論理を説いた本の巻末に、その記録と署名を書き加えています。



「久壽二年・・・」以下の3行と署名が頼長の自筆です。

  久寿二年(1155年)3月11日蔵俊を師匠
  として読みはじめた。20日に読み終え
  た。字点の誤りは訂正した。
          左大臣 (花押)

ちなみに、この久寿2年は、37歳で亡くなる保元元年の前年に当たります。

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忠通(ただみち)は忠実(ただざね)の長男で、頼長(よりなが)の兄にあたります。洛東の法性寺の別荘に住み、そこで出家したことから、通常「法性寺関白(ほっしょうじかんぱく)」あるいは「法性寺殿(ほっしょうじどの)」と呼ばれます。



藤原摂関家は、代々摂政関白を務めてきたため、氏長者は後継者のために日記などを書き残してきました。



忠通だけはそのような記録を残しませんでしたが、代わりに多くの歌を詠み、また、能書家として書道の「法性寺流」を創始しました。

現在残された真筆は多く無いのですが、公私の書状の「案」29通が国宝に指定されています。



大河ドラマでは、写真のようにいつもしかめっ面で、「鼻もちならない尊大な貴族」として描かれていますが、どうも史実とはかなりかけ離れているようです。
そして、なにより、忠通の子孫達が九条家や近衛家を創始して繁栄したことは評価されてもいいのかも知れません。

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先日は、楽しいお話をありがとうございました。
その時、話題になっていた名前。わざわざルビを打っていただき恐縮です。
それにしても忠通の写真、どうなんでしょう。イメージしやすいと言えば言えますが…
[ Lady J ] 2012/05/31 21:47:30 [ 削除 ]
★Lady Jさん。
こちらこそ、マニアックな話におつきあいくださりありがとうございました。
これからも、清盛ネタはできるだけルビをつけるつもりです。
[ 今津っ子 ] 2012/06/01 18:57:00 [ 削除 ]
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当時、摂政関白は世襲制で、その家筋は藤原摂関家呼ばれていました。保元の乱の原因の一つでもある頼長(よりなが)と忠通(ただみち)兄弟の後継者争いの父親が忠実(ただざね)です。

忠実(ただざね)は、『殿暦(でんりゃく)』と言う日記を書き残しています。



右大臣、摂政、関白、太政大臣と政権の中枢の役職を歴任していましたの、天皇の動静をはじめ当時の都の様子の公式記録とも言えます。

一例として、康和4年(1102年)、忠実24歳、まだ右大臣だったころの記事を挙げます。



14日、雨。翌日は競馬(くらべうま)があるので、天皇は鳥羽殿(今の城南宮のあたりにあった)に行幸しました。当時右大臣だった忠実も同行しました。
15日、晴。競馬当日、忠実は午前10時に束帯(正装)を着て天皇の下へ。この装束は祖父の師実(もろざね)が、40年前の高陽院(かやいん)で行われた競馬の時に着たものでした。

日本式競馬(くらべうま)は今も賀茂競馬として上賀茂神社に継承されているように、武官が左右に分かれて出走します。
『殿暦』にはその出走表が書き記されています。
当時は勝負は10番まで行われました。

忠実自筆の『殿暦』は残っていませんが、摂関家の氏長者(うじちょうじゃ、氏の代表者)として受継いでいた記録文書の自筆目録が残っています。



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   瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
      われても末に 逢はむとぞ思ふ

「百人一首」の中でもとりわけ有名なこの歌を詠んだのが、保元の乱で知られる崇徳院(すとくいん)です。



天皇が退位すると「上皇(じょうこう)」となり、その後出家すると「法皇(ほうおう)」になります。ただ、通常は上皇法皇ともに「院(いん)」と呼ばれます。既に上皇法皇がいるのに新たに天皇が退位した場合は、元の上皇法皇は単に「院」、新しい上皇法皇は「新院」となります。



聞いたことがある歌だな、程度の認識でしたが、調べてみて「急流の水は岩にぶつかって左右に分かれることがあるが、結局はその先で一つになる。私とあなたもそうありたいものだ」の意味だと始めて知りました。

崇徳院は保元の乱で破れ、讃岐に配流(いわゆる島流し)され、そのまま京に帰ることなく生涯を終えます。いよいよ来週はこのくだりです。

ただ、今のところ、大河ドラマでは、崇徳院とこの歌の関係には触れられていません。

************************

訳あって、大河ドラマ「平清盛」は最初から見ています。ちゃんと見ているので、言いたいことを言います。

世間の評判はよくありません。平均視聴率が歴代最低であるだけでなく、前回は11.2%(関東)と10%割れ寸前です。

それはそうでしょう。なにせヒドイ出来です。

まず、兵庫県知事が言うように画面が汚い。
当時の日本はそんな汚かったのでしょうか。
清盛ら武士は、いつも顔は泥だらけで、福はヨレヨレボロボロです。
そんなはずはないでしょう。どう見てもスタッフの独りよがりです。

次に、話がなんのこっちゃさっぱり分かりません。
予備知識のある教養人や歴史マニアならいざしらず、登場人物が多く、しかの名前が良く似ていて、ストーリーが理解できません。

さらに、これが私が一番重要だと思うのですが、清盛の行動の記録が残り、興味深いエピソードが増えるのは、保元の乱くらいから後なのに、従来の大河の構成の仕方通り、子供時代や青年時代に半年近く使ってしまいました。
なにぶん清盛の子供時代や青年時代の記録はとても少なく、そのため、大して面白くもない脚本家の創作による小ネタの羅列でお茶を濁している間に、視聴者は逃げてしまったのではないでしょうか。

6月くらいからは恐らく面白くなると思います。
秋頃から、清盛は西宮を通って京都と神戸を往復します。このブログでも今年の後半は【マニアック清盛】を続ける予定です。

今からでも、お時間がありましたら、ぜひ大河ドラマ「平清盛」をよろしく。
ただし、見たけど面白く無かったと言う苦情はお受けできません。悪しからず。

マニアック清盛 | コメント( 3 )

退院おめでとうございます。私の祖父の生家は旧大庄村の浜田にあります。今は寺になっていますが、寺院になる以前からそこらあたりに居住していたようで、崇徳院が讃岐に流される時、立ち寄られたという言い伝えがのこっています。書かれたものなど伝わっていますがこちらは偽文書だと思います。今回の大河は全く見ていないので菅...。なかなか45分見つづけるのもつらいです。
[ ふく ] 2012/05/29 19:51:37 [ 削除 ]
「平清盛」はとびとびに見てます(笑)
ほこりっぽいのも空が低いのもまぁよしとして、私が気になってるのは
宮中の女性があんなに簡単に男性に姿を見られちゃう?ということですね。
たまたま見た中で「瀬をはやみ・・・」は早い頃に佐藤義清が
院の御歌として披露したぐらいでしたが、私がこの歌を憶えたのは百人一首ではなく落語を聞いてでした(笑)
[ にゃんこ ] 2012/05/30 8:04:03 [ 削除 ]
★ふくさん
お心遣いありがとうございます。
色々調べてみると、浜田の南端の中国街道は平安末には既に成立していたようです。
崇徳院の配流は京都出発のようすの次は須磨の沖を船で通過するまでコースが分かっていません。
浜田の伝承が正しい可能性もあります。
★にゃんこさん
にゃんこさんの書き込みを見てよくよく考えてみると、私も「瀬のはやみ」は落語で聞いたのが最初だったような気がします。
ひさしぶりに落語「崇徳院」を聞いてみようと思います。
[ 今津っ子 ] 2012/05/30 20:05:07 [ 削除 ]
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「勝てば官軍、負ければ賊軍」、藤原頼長は保元の乱で破れたために、後世、悪左府(悪左大臣の意味)と呼ばれるようになってしまいましたが、実際には、育ちはもちろんのこと聡明な切れ者として順調に出世し、17才で内大臣に昇りつめていました。
今回、日記『台記』(たいき)の記事を紹介する永治2年(1142年)はちょうどその頃です。



まず、天皇の皇位継承争いを理解していただく必要があります。



当時、鳥羽天皇(三上博史)は皇位を子供の崇徳天皇(井浦新)に譲って自身は法皇になったものの、実際の権力は天皇に渡さず、いわゆる院政を敷いていました。崇徳天皇や生母の待賢門院璋子(檀れい)にすれば、やがて鳥羽法皇の死後は崇徳天皇が権力を継承できるものと思っていました。ところが、鳥羽法皇と美福門院得子(松雪泰子)との間に重仁親王が生まれて一気に情勢が変わり、崇徳の次の天皇は重仁親王と言うことになりました。そうなれば崇徳天皇や待賢門院璋子は一度も権力を手にすることなく終わってしまいます。

そんな時代背景のもと、事件が起りました。もちろん、藤原頼長が直接目撃したわけではありませんし、頼長自身が広田神社に来たわけではありません。「西宮市史」の助けを借りながら漢文で書かれた日記の内容を紹介したいと思います。



待賢門院に使えていた源盛行と妻、および関係者が土佐などに流罪となった。それは、盛行たちが「広田社」で行ったある行為が密告により発覚したからだった。聞くところによると、盛行らは崇徳天皇や待賢門院の心情を察してか、「広田社」で巫女を使って美福門院に呪をかけたと言うのである。また、「西宮宝殿」(この西宮は西宮神社ではなく、京から見た西宮、つまり広田を含む広い意味での西宮らしい)で呪の人形のようなものも見つかった。

頼長は、この事件に直接関係がないので、あくまでも淡々と記録しています。

しかし、この14年後、再び皇位継承問題で不満を持った崇徳天皇と組んで保元の乱を起こしたため、今度は頼長自身が命を落とすことになろうとは、この日記を書いた時点では夢にも思わなかったでしょう。

次回は、頼長父の登場予定です。

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昔(S10年ごろ)の用海地図ですが、CDにしておきましたので、またご来店の時にお渡しいたします。
[ imamura ] 2012/05/28 17:03:18 [ 削除 ]
★imamuraさん。
昨日は楽しい一時、ありがとうございました。
地図の件、お心づかい感謝します。
[ 今津っ子 ] 2012/05/29 19:39:45 [ 削除 ]
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大河ドラマ「平清盛」も、まもなく半分うを過ぎようと言う頃になって、ようやくここでも清盛を取り上げることになりました。もっとも、このブログのことですから、そんじょそこらの清盛ガイドでは触れられることも無いようなマニアックな話題ばかりになるかも知れません。

お好きな方は、よろしくおつき合いください。

さて、平清盛と言えば神戸と言うイメージですが、調べてみると、清盛はじめ平家物語に登場する人々は結構、西宮や尼崎、芦屋ともかかわりがあることがわかりました。平安時代の貴族は、よく日記の形で公私の生活を記録していますので、これらの日記などをひも解きながら見て行きたいと思います。

まずは、藤原頼長(ふじわらのよりなが)です。
ドラマでは登場人物は次々と死んで行きますが、この頼長も、恐らく明後日、5月27日、「保元の乱(ほうげんのらん)」の回で亡くなりますので、なんとか生前に紹介することができ、滑り込みセーフと言ったところです。



代々摂政や関白を務めてきた藤原摂関家のエースでありながら、政争に破れ、悲惨な末路を迎えます。

その一方、17才の頃から、37才で亡くなる前年まで約20年間、日記などの形式で当時の様子を記録しました。そのうちの代表作が、現在『台記』と呼ばれている日記です。



そのうちのある一日の記事です。



「広田」や「西宮」の文字が見えます。

なにが書いてあるかは次回に。

マニアック清盛 | コメント( 4 )

「待ってました!」と声をかけたくなるようなブログですね。続きが楽しみです。
[ 西宮芦屋研究所員 ] 2012/05/25 22:15:24 [ 削除 ]
大河ドラマは見ていなかったので、悪左府頼長をこういう男前がやっているとは知りませんでした。この時代を今津っ子さんが書かれるのは、非常に楽しみです。
[ 凛太郎 ] 2012/05/26 6:40:37 [ 削除 ]
はじめまして。
私もドラマは見ていないのですが、今津っ子さんのブログでは、
役者さんとリンク(?)させていただけるようなので、
何だか今から楽しみ(ワクワク)……
[ Lady J ] 2012/05/26 9:13:20 [ 削除 ]
★西宮芦屋研究所さん。
このブログではこのように気楽に読める話題にしようと思います。

★凛太郎さん。
清盛も、実際にはかなり男前だったと言う説があります。

★Lady J さん
ご推察通りです。その予定です。
[ 今津っ子 ] 2012/05/26 21:14:19 [ 削除 ]
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変わり行く今津の風景の中に、今も残る昔の面影を探します。

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