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87 この付近は道が直線化され、旧道が一部失われています。
88 かつては一面の水田でしたが、宅地化され面影もありません。
89 土地が低く、洪水の度に水浸しになったそうです。
90 鈍角に曲がって東に向きを変えます。
91 阪急千里線の踏切りを渡ります。
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93 道の右側に吹二小学校がありました。
写真2

旧吹二小学校
大正13年に開設され、現在はいずみ保育園と公園の敷地になっています。写真は大正15年に撮影されたもので、校舎手前に津戸ノ中道が写っています。

『きりえさんぽ吹田』より
94 路地に入り込まず、ここで左折します。
95 ゆるい坂を上り、いわゆる吹田街道(旧、京道/伊丹道)に合流します。
96 右の建物辺りに、一里塚にちなんだ「榎茶屋」がありました。
写真3

榎茶屋
 江戸時代の一里塚は、道の両側に盛土をして榎(えのき)が植えられていました。その榎にちなんで榎茶屋と呼ばれる茶屋があり、後にその地はタイガー食堂となって近年まで残っていました。写真は昭和30年代撮影のもので、辺りの水田より一段高くなっていた街道が茶屋手前に見え、左奥には泉殿宮の森が写っています。

『目で見る豊中・吹田の100年』より

 一里塚は村内に二か所あり、一は現在の上高浜橋即ち吹田渡を渡った北岸程近きあたりの路傍に、一つはいま出口町の南西端山際を通るあたりの路傍にあった。(中略)出口の南西端を迂回する路傍に榎の痕跡のあったことは筆者の幼少の頃の記憶にあり、その辺に榎茶屋という水茶屋もあった。
   ーーー『吹田志稿』より

 歩道橋西側の「タイガー食堂」のところに、むかし榎の大木がある「榎茶屋」があって道行く人の休み場になっていました。昭和の終わりごろには榎は枯れていましたが、ふたかかえもある幹の穴にフクロウがいて、夜など淋しい鳴声をたてていたとか。茶屋では老夫婦が駄菓子や煮売りなどを商っていたということです。
   ーーー『きりえさんぽ吹田』より

97 左の歩道が旧道と思われます。この辺りに一里塚がありましたが、詳細な位置は不明です。
98 旧道は、府道大阪高槻京都線に呑み込まれています。